第60話

「いたっ!?」

「何やってんだ、お前」


 拓海に叩かれた男――佐嶋智広は、少し赤くなった顔を持ち上げたとたん、実に分かりやすく驚いてみせた。陸に打ち上げられた魚のようにビクビクッと全身を震わせ、何でここに拓海がいるのか分からないとばかりに表情を強張らせている。


「え、えっと、あの……兄さん?」


 こわごわと声を出す智広の傍らのガラステーブルには、五本のシャンパンボトルが並んでいた。そのうちの二本は空っぽで、智広が掴もうとしているボトルのコルクは抜かれていた。


「ふざけてんじゃねえぞ、お前。飲めないくせに、何でラッパ飲みなんてしてる!?」


 智広の手が触れようか触れまいかという位置に置かれていたボトルを取り上げ、拓海はソファで愉快そうに眺めていた紫雨をじろりと見やる。紫雨の隣にいるのは、ここ最近常連となってきていたキャバ嬢だった。


「あれ、拓海じゃん。今日はお休みだって紫雨が言ってたのにぃ」


 キャバ嬢は拓海の顔を見るなり、紫雨の事をほったらかして立ち上がろうとした。それを「そうなんですよ、今日はプライベートなんです」と空いた手で制すると、拓海は紫雨にボトルを突き出した。


「体験入店の奴にラッパ飲みは禁止だって、前に賢哉さんが言ってたよな?」

「うん? そうでしたっけ? すみません、ど忘れしてまして」


 しれっと、何の悪びれもなくそう返す紫雨に、拓海はいらだちが増す。だが、すぐ隣でふらふらと足取りがおぼつかなくなった智広を見て、長話をする気が失せた。


「どうしてもやりたいなら、お前が自分でやれ。新人こき使うな」

「そいつがやりたいって言ったから、その通りにしてあげたのに心外ですねぇ」

「こいつには、俺から言っておく」


 じゃあなと言って、拓海はふらつき続ける智広の腕を取り、自分の肩に回させる。そのまま更衣室に向かって歩き出したのだが、そんな拓海の背中に向かって、紫雨が大声を張り上げた。


「佐嶋グループのお坊ちゃん、お兄さんの職場での貴重な社会科見学はいかがでしたかぁ?」


 その瞬間、どおっと大きな嘲笑がフロアいっぱいに響き渡る。紫雨派を気取るホスト達や、事情をよく知らずに傍観していた客達のものだった。


 何故かこの時、拓海はいらだちを通り越して怒りを覚えた。


 笑われているのは、俺じゃない。こいつだ。俺の弟を自称して、飲めないと言ってたくせにこんなバカな飲み方をしていたこいつが、皆に笑われてるんだ。


 そう思っているのは確かなのに、どうにも怒りが治まらない。かつて小学生の智広が彰人にしでかしたように、紫雨のあごを殴りつけてやりたかった。


 それを何とか思いとどまる事ができたのは、ぐったりとして拓海に引きずられるようにしながらも、智広がこんな事をぶつぶつと言っていたからだった。


「……兄さん、僕の兄さんだ。よかった、やっと会えた。でも、おかしいなあ。何で兄さん、僕がお酒ダメだって知ってるんだろ……。話した事、ないのに……」


 何言ってるんだ、こいつ。この前、そう話しただろうが。

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