第53話

「ねえ、ちょっと待ってよ拓海」


 図書館から少し離れた信号が、ちょうど赤に切り替わっていた。そこの横断歩道の手前で足を止めていた拓海の背中に、ようやくミチが追い付く。『太陽の里』の子供達に付き合ってよく追いかけっこをするから走るのには慣れているものの、少し乱れた息遣いはごまかしようがなかった。


「どういう心境の変化?」


 ここの信号は、待ち時間が少し長い。その間に何とか息を整えて、ミチは拓海に問いかける。拓海は振り返りもせず、ゆっくりと答えた。


「別に、ちょっとした好奇心って奴かな。あははっ」

「……また、下手な嘘をつく」

「何だよ、それ」

「本当に、何があったの?」


 背後にいたミチが、素早く拓海の横に並んできて、その顔を覗き込む。拓海の表情は少し強張っていて、いらだっているようにも見えた。


 本来なら、これ以上聞くべきではないかもしれない。拓海の機嫌を悪くさせない為にも、そっとしておいた方が無難かもしれない。しかし理由も言わずに連れ出され、挙げ句、訳も分からないままに手伝わされたのだ。このままではミチは納得できなかった。


「お義父さん達に言っちゃうよ?」


 少し卑怯かとも思ったが、ミチは新藤夫妻を引き合いに出す事にした。とたん、拓海の口から「うっ」と詰まるような声が漏れたので、こういうところも相変わらずだなと思った。案外、この男はちょろい。


「いいの?」


 とどめの短い言葉を吐くと、ギギギ……と鈍い音が鳴りそうな感じで、拓海がミチを振り返る。その表情からは強張りが失せていた。


「卑怯な奴」

「何とでも言えば?」

「くそっ」

「で? 何があったの?」


 ミチがそう言ったタイミングで、信号が青に変わった。同時に拓海の両足も動き出し、横断歩道の上を足早に進んでいく。


「まだ、先生達に言うなよ」


 自分の後をついてくるミチにそう前置きしてから、拓海は観念して言った。


「俺の弟だっていう奴が出てきた」

「えっ!?」

「そいつに付きまとわれて困ってる。おまけに、昔の夢を見た……と思う」

「それって、さっきパソコンに出てた佐嶋って人の事?」


 さっき間仕切りの上から顔を出した時に見えていたのだろう。それには答えずに拓海が黙っていると、ミチは少し興奮気味に言葉を続けた。


「じゃ、じゃあ! あの佐嶋グループの最初の社長さんが拓海の本当の……」

「それは違うってよ」

「え?」

「その、自称弟って奴が言ってた。俺はそいつの息子じゃないって」

「そうなの? じゃあ、ちょっと安心だね」

「何で?」

「だって、その最初の社長さん、確か二年前くらいに死んじゃってるでしょ? 奥さんと一緒に」


 ミチのその言葉に、横断歩道を渡り切った拓海の両足がぴたりと止まった。いや、動けなくなったと言った方が正しいだろう。


「は……?」

「結構ニュースになってたの、知らないの?」


 ミチがきょとんと首をかしげながら見上げてくる。拓海は何も答えられず、呆然と彼女を見返す事しかできなかった。

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