第50話

「ああ、うわああっ……!」


 まだ早朝の為か、マンションの廊下やエントランスを行き来する住人の姿はなく、もんどりうちかねない調子でそこを走り抜けてくる智広の姿を見られる事はなかった。


 智広の顔には、困惑と恐怖の色がないまぜとなって現れていた。先ほどから彼の頭の中を占めているのは「どうしよう」という気持ちだけだ。


 どうしよう、何て言い訳しよう。ああ早く、早く帰らないと。そうでないと……!


 マンションのオートロックは、内側からだと簡単に開く。難なくそこもくぐり抜けてきた智広だったが、突然大きな誰かの体にぶつかる。そして、その太い両腕にがっちりと捕らえられた。


「う、うわっ……。い、嫌だ、離してっ……」

「智広様、私です!」


 パニックになりかけて暴れかけた智広だったが、聞き覚えのあるその声にぱっと顔を上げる。目の前にあったのは、心配そうに自分を見つめてくる松永の顔だった。


「……ま、松永。どうして」

「万一に備えて、智広様のスマホにはGPSが付いておりますでしょう? お忘れですか?」

「松永、どうしよう……」


 智広の顔も声も、すっかり怯え切っている。やはり、昨夜は泊まらせるべきではなかったと松永は後悔した。


「松永、どうしよう。こんな時間まで、僕で……。ここ、どこ? 父さんに何て言ったらいい?」

「智広様、どうか落ち着いて下さい」

「僕のせいで、母さんまでひどくされたらどうしよう」

「大丈夫です、智広様。ここは、新藤拓海様のマンションですから」


 松永は大きな両腕を智広の背中に回し、ゆっくりとそこを撫でてやる。智広もすがるように松永の胸元を掴んでいるが、その手の震えが止まらなかった。


「し、しんどう、たくみ……」

「ええ。智広様の、お兄様ですよ」

「に、兄さん……。そうだ、僕の兄さんだ。新藤拓海は、僕の、たった一人の……」

「それにご安心下さい。先代は、もういらっしゃらないのですよ?」

「……いない?」

「そうです。先代は、もう二度と智広様をさいなんだりしません。あなたはもう自由なのですよ」


 だから、もう安心して下さいと松永が続けると、まるでその言葉を合図とでもするかのように、智広の体からがくんと力が抜けた。


 慌てて抱き留めてその顔を覗き込むと、両目を閉じてぐったりとしている。「よかった……」と小さく何度も呟いているので意識はあるものの、すっかり気が抜けてしまったのだろう。


「これで、僕はやっと兄さんを捜せるんだ……」


 松永の腕の中で、智広が幸せそうに微笑む。その様子に松永は唇を噛みしめながら、すぐ側の路肩に停めてあったリムジンまで智広をゆっくりと運んでいった。

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