第46話

洗面所の鏡の前に立ち、『Full Moon』を出る前に笙に貼ってもらった頬のガーゼを剥がす。やはり、ホストと名乗るにはあまりにもお粗末な顔となっていた。


 まだきちんと冷やしてないせいで頬の腫れは引いていないし、想像した通り大きめの青アザもできている。よほど思いきり殴ってくれたようだが、これで歯の一本も欠けなかったのはラッキーだったかもしれない。


 明日、目が覚めたらドラッグストアにでも言って軟膏を買ってくるべきかと思っていたら、ふと鏡越しに智広がこちらを窺っているのが見えた。青アザのひどさに気付いたのか、口元をきゅっと引き絞り、悲痛な目を向けてくる。


「ウザいから、こっち見るな」


 鏡の中の智広に向かって、拓海が言う。その途端、智広の肩がビクッと揺れた。


「ごめん」

「こんな時間だ、仕方ないから今日だけは泊めてやる。朝になったら出ていけよ、いいな?」

「うん、ありがとう兄さん」


 そう返すと、智広はキッチンの棚の中にあった丼を引っ張り出し、冷凍食品のうどんを調理し始めた。





 十五分ほどして、リビングのテーブルの上には地味な見た目のうどんが一杯置かれた。拓海がそのうどんと、テーブルを挟んで正面に立っている智広を交互に見つめていると、彼は満面の笑みで「食べてよ、兄さん」と促した。


「初めて作ったんだけど、案外うまくできるもんだね」

「普段はメイドさんに作ってもらってんのか? それとも、あの松永って奴か?」

「ううん、トメさんだよ」


 久しぶりに聞くその名前に、拓海は「ああ……」と声を漏らす。名前からして結構な年なんだろうが、そのトメって奴のせいでこいつと出くわす羽目になったんだと改めて思い出した。


「……いただきます」


 正直気に食わないが、一応作ってもらった手前、食べ物を無駄にするような真似は避けたい。椅子に腰かけると、拓海はうどんにゆっくりと手を付けた。


 できるだけ力を入れて啜らないようにしているが、やはり頬が痛む。冷えピタの心地いい清涼感と、口の中の温かなうどんの麺が互いに刺激し合って、どうしても咀嚼がうまくいかない。


 そんな拓海の様子を、智広はじいっと見つめている。きっと自分に何かあったら即座に対応できるようにとでも思っているようだが、まるで観察されているみたいで気分はよくない。しかも相手が一切食事をしていないのなら、なおさらだ。


 だからだろうか。拓海はつい「お前の分は?」などと聞いてしまっていた。

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