第42話

早退するなんて、ホストになって初めての事じゃないか? そう思いながら、拓海は『Full Moon』の入っているビルから外へと出た。


 フロアを出る際、事務室に戻ろうとする賢哉の後ろ姿を見つけたので、慌てて後を追った。そして「迷惑をかけてすみませんでした」と謝ると、賢哉はふうっと長い息を吐き出してから、言葉を発した。


「大体の事情は、あの兄ちゃんから聞いた。お前の方の言い分はあるか? 聞いてやる」


 事務室のデスクにあるリクライニングソファに腰かけ、賢哉が少し厳しい目を向けてくる。結果的に、松永に殴られた拓海は被害者になる訳だが、そうなるきっかけを作ったのもまた拓海自身だ。


 下手な言い訳をする方が見苦しい。そう考えた拓海は、首を横に緩く振った。


「いえ。あいつの言う通りでいいです」

「……」

「俺は、自分が言った言葉に後悔はしてないです。ただ、場所は弁えるべきだった」

「まあ、そうだな」

「紫雨の客にも迷惑かけて、本当にすみませんでした」


 そう言って、もう一度頭を下げる。そんな拓海に、賢哉は居心地が悪そうにぼりぼりと頭を掻いた。


「あんまり何度も謝るな。なんだかんだ言って、お前とは長い付き合いだからよ。そうも殊勝が過ぎると、次に何て言っていいか分かんなくなるだろ」

「すみません……」

「だから……まあ、いい。次からは気を付けな。やっと見つかった身内じゃねえか」


 身内。その単語に、拓海は反射的に顔を上げ、賢哉を凝視する。賢哉はますます居心地が悪そうに「あぁ~……」と声を出した。


「安心しろ。当のお前を差し置いて、詳しい話なんぞは聞いてねえ。ただ、あの兄ちゃんが言ってた事を反芻しただけだ」

「前にも言いましたよ。俺に血の繋がった家族はいません。兄弟なんたらは、あいつが勝手に言ってるだけで証拠はないんですから」

「身内じゃないって、証拠もないんだろ?」


 もっともな言葉に、拓海は押し黙る。


 確かにその通りだ。違うと口で否定しているだけで、拓海も智広と兄弟ではないという決定的な証拠を出している訳ではない。二人そろって、ずっと言葉のみをぶつけ合ってるだけだ。


「手っ取り早いのはDNA鑑定だろうがな」


 賢哉が小さく笑った。


「あんな兄弟ゲンカするくらいなんだ。本当は気になってるんじゃねえの?」

「……」

「まあ、明日から三日休め。病院にはちゃんと行けよ?」

「はい」


 賢哉さんの目から見ても、あの騒ぎは下らない兄弟ゲンカに見えるのか……。


 まだ痛みが疼く頬を気にしながら、拓海はビルから離れ、自宅マンションの方へとゆっくり歩いていく。スマホの液晶画面を窺えば、まだ二十三時を少し回ったところだった。


 こんなに早く帰っても、何もする事がない。風呂に入ると腫れがひどくなるから、シャワーにしておこうか。


 そう思っていたところ、背後からプップーと車のクラクションが鳴る音が聞こえてきた。肩越しに見ると、あの黒塗りのリムジンがそこにいた。

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