第40話

「……あ~あ、すっかり腫れちまってますね。大丈夫ですかぁ?」


 頭上からかけられてきた声にゆっくりと目を開くと、紫雨の薄ら笑う顔が見えた。とても自分を心配しているとは思えないその表情に舌打ちしたいのを必死に堪えながら、拓海は更衣室に備えられている中古のソファに横たえていた体を起こした。


「これくらい、どうって事ない」

「いやいや、鏡見て下さいって。拓海さんの端整な顔、台無しになってますよ」


 そんな事言われなくても、充分に分かっていた。先ほど、笙が冷やして持ってきてくれたタオル越しに感触を確かめてみても、相当ひどい事になっているだろう。もしかしたら、青アザもできているかもしれない。


 顔はホストにとって、最大の商売道具だ。まかり間違っても傷一つ付けるんじゃねえぞ。


 新人だった頃、賢哉に何度も口酸っぱくそう言われてきた事を思い出す。だから、そんなガラじゃなくても肌の手入れは怠らなかったし、客の女に引っぱたかれるような事もないよう、細心の注意を払って仕事に努めてきたのに。


「くっそ……!」


 意識しなくても、そんな陳腐な文句が口から出てくる。それを聞いて、紫雨の口元がわずかに弧を描くのが視界の端に見えた。


「まあ、病院には行った方がいいでしょ」


 くるりと背中を見せて、紫雨が言った。


「その腫れ、当分は引かないでしょうから、少し休んでいて下さいよ。その間、『Full Moon』は俺が引っ張っておきますんで」

「紫雨、お前……」

「どうぞお大事に」


 くつくつと笑いながら更衣室を出ていく紫雨に、拓海は今度こそ大きな舌打ちをした。


 紫雨の低俗な考えなど、手に取るように分かる。確かにここまで顔を腫らしたホストなんぞ、店に出てきたところで売り上げの率を下げるだけだ。そうやって俺が休んでいる間に、No.1の座は戴きますよって魂胆か。分かりやす過ぎて、いっそすがすがしい。


「くそっ!」


 イライラが最高潮に達して、足元に転がっていた掃除用のバケツを思いっきり蹴り飛ばす。バケツはドアの所までもんどりうつように転がり、ちょうど更衣室に入ろうとしてきた笙を驚かせた。


「うっわ、危ねえ! あ、拓海さん大丈夫ですか?」


 紫雨と違って、笙は本当に心配そうに表情をくしゃりと歪ませながら近付いてくる。バケツの事だって気付いているだろうに、それには一切構わずに替えの冷やしタオルを差し出してくるあたりが、拓海が彼を気に入っている要因の一つだった。


「まだ腫れてますよ、痛むっすか?」

「サンキュ。まあ、少しな」

「とんだ災難でしたね。全く、とんでもねえおっさんだ」


 そう言って、笙は更衣室のドアの向こうをにらみつけた。

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