第39話

「兄さんと僕は、父親が違うから」

「……あ?」

「で、でもっ、兄さんは母さん似だよ? 物腰がスマートなところとか、人様に気を遣う仕事に就いたところとか、後は……そう、お客さんに見せてる笑顔なんか母さんそっくりだ!」


 必死にそう説いてくる智広の姿に、拓海は激情を覚えた。


 それと同時に、例の記憶も脳裏に浮かび上がってくる。花びらが舞い散る桜の木の下。右肩を怪我している幼い自分。そして、そんな自分を容赦なく置き去りにしていく、腹まわりの太った女の後ろ姿――。


「ははっ、そうかよ」


 これ以上ないと思えるほどおかしくなって、拓海は笑いだした。その笑い声はやがてフロア中に響き渡るまでに大きくなり、『Full Moon』にいる全ての者達の視線を集めるが、拓海は一切気にせずに言葉を続けた。


「なかなかおもしろい事を言うな。これまでの妄言の中じゃ、一番だ」

「に、兄さん……?」

「なあ。お前、俺達ホストを何だと思ってる?」

「え?」

「女に金を落とさせる為なら、甘い言葉も腰も平気で振るような奴に見えるか? ええ、大企業のお偉いさん?」

「……」

「そんなホストにだまされる女達は、さぞ滑稽に見えるか? だがな、俺からすればお前の母親って奴の方がよっぽど滑稽だ」

「な、何で……」


 まるで信じられないものを見るかのように、智広は拓海の顔を見てくる。


 拓海は、もううんざりだった。どれだけ自分に理想の兄貴像を重ねていたかは知らないし、知るつもりもない。もう、顔すら見たくない。そう思って、「万一、お前の言う通りだとしたら」ととどめの一言を吐いた。


「お前の母親は、誰にでも股を開く淫乱女だって事だろ。大企業の社長が旦那だってんのに、到底満足できなかったんだから」


 智広の口から、ヒュッと息が詰まる音が聞こえる。それと同時に、拓海は静かに立ち上がった。


 これで本当にせいせいした。もう二度と会うものか。賢哉さんに言って、今度こそ出禁にしてもらおう。


 そんな事を考えていたせいだろうか。拓海は、自分の方に向かってつかつかと近付いてくる足音や気配に全く気付く事ができなかった。


 そして、次の瞬間に感じたのは、急激に襲ってきた頬への強い痛み。そして、隣のボックス席まで吹っ飛ばされた衝撃と女達の甲高い悲鳴だった。


 ……何だ? 何が起こった?


 すぐに起き上がろうとしたが、全身を強かに打ち付けたせいか全く力が入らない。体を支えようと伸ばした両腕はぱたりと床に落ち、頭の中がくらくらとする。思いきり殴られたのだと分かったのは、大きな怒声が耳に届いてからだった。


「貴様、今なんて言った!?」


 ……何だ? 誰だったか、こいつ……。


「よくも、よくもそのような事を! 綾子りょうこ様への侮辱は許さんぞ!!」

「やめろ、やめてくれ松永!! 僕達が悪いんだから!!」


 うっすらと開けた両目の視界に入ってきたのは、憤慨やる方なしとばかりに倒れている拓海を見下ろす松永と、そんな彼を懸命に抱き留めている智広の姿だった。


「兄さん、兄さん大丈夫!? ごめん、本当にごめん!」


 ……何でお前が謝ってんだよ。そういうところが気に食わねえんだって、いい加減分かれってんだ。


 そう口に出したかったが叶わず、拓海はふっと意識を手放した。

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