第37話

「大企業の社長様は、ずいぶんとお暇を持て余しておられるようだな」


 その日、佐嶋智広は実に三週間ぶりとなる『Full Moon』への来訪を果たしていた。


 松永から根を詰めるなと言われた時は、軽い調子で大丈夫などと返事をしたものの、体はとても正直だった。思っていた以上に疲労がたまっていたのか、あれから二日ほど自室のベッドに伏せってしまい、満足に動けなかった。


 その後は、たまるにたまった業務に忙殺される日々。いや、これまでだって仕事を疎かになどしてこなかったし、『Full Moon』に行くと決めた日は、アフター5までには全てのスケジュールをこなしてから足を運んでいた。


 今日だってそうだ。ある大手IT会社の社長や専務と会食の予定を立てていたのだが、それを夜ではなくて昼食に回してもらった。自分でもずいぶんと子供じみたわがままを言ったものだと思うが、その分きっちり契約はまとめたのだから文句は聞きたくない。


 そうやって、ようやくできた時間をずっと捜し求めていた兄との逢瀬に使いたかった。そして、もしもできる事なら――。


 そう意気込んで、『Full Moon』の入り口で拓海を指名し、ボックス席にて彼を待つ。そして、しばらく経ってから現れた彼に向かって「兄さん、僕だよ。あなたの弟の」と喜びながら言いかけたところで、拓海の口から先の言葉が飛び出したのである。


「え……?」

「さすがにちっとは驚いたよ。まさか、世間に名高き佐嶋グループの若き二代目社長さんだったとはな」


 ソファに座る事なくじろりと見下ろしてくる拓海に、智広はきょろきょろと目を泳がす。そんな彼の様子に、拓海はフロアに流れるBGMに紛れ込ませるように、ちっと舌打ちをした。


「え、えっと……。僕、言ってなかったっけ……?」


 おどおどと、しかし不思議そうに尋ねてくる智広に、拓海はその手に持っていた雑誌や小冊子などを投げ付けるようにしてよこしてきた。ばさりと音を立てて自分の鳩尾みぞおちあたりにぶつかってきたそれらに目を向けると、頭上から拓海の声が降ってきた。


「お前だな? その雑誌に俺の事を紹介したのは」


 智広の目に一番印象深く留まったのは、分厚い経済情報誌だった。その下敷きになっている小冊子の表紙には、見覚えのある大きなビルの外観と二人の人物の顔がちらりと見えている。


 智広はそれらを目の前のクリスタルテーブルに一度置くと、慌てて懐から手帳を取り出し、ペラペラとそのページをめくった。そして。


「うん。確かに取材を受けてるね」


 などと、まるで何でもない他人事のように言ってのけたので、拓海は「どういうつもりだ?」と言わざるを得なかった。

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