第32話

「……また、兄さんとちゃんと話せなかったなぁ」


 『Full Moon』のある賃貸ビルより一キロほど離れた駐車場に停められているリムジン。その後部座席に深く腰を下ろしてから、智広はぽつりと呟くようにして言った。


 遅れて運転席に乗り込んだ松永は、そんな主人の落ち込んだ様子をバックミラー越しに窺う。とても寂しそうにうなだれているその姿は見るに耐えないものがあり、差し出がましいと思いつつも、口を開かずにはいられなかった。


「智広様、あまり根を詰められない方がよろしいかと。日々の業務もありますし、何よりお体に障ります」

「僕の事なら大丈夫だよ。きちんと仕事はするし、疲れすぎないように無理だってしない。松永には迷惑だろうけど、最後まで付きあってほしい」

「しかし、いくらこれまでの事があったにせよ、彼のあの振る舞いは納得がいきません」

「それに関しては、想定内だよ。当たり前じゃないか」


 僕達は、それだけの事を兄さんにしでかしてしまってるんだよ?


 智広のそんな言葉に、松永はぐっと息を詰まらせる。分かっている事だけに、彼の口から改めて言われてしまっては、とてもそれ以上の反論をする事などできなかった。


「松永。僕はね、嬉しいんだ」


 後部座席の背もたれにその身を任せて、智広はリムジンの天井を仰ぎ見る。あれだけ拓海に無視され、拒絶されているというのに、その表情はとても穏やかだ。嬉しいというその言葉に、わずかばかりの偽りも混じっていないのだろうと松永は思った。


「一つずつ、僕の夢が叶っていく。それがどんなに嬉しいか、分かる?」

「はい、智広様」

「この気持ちを噛みしめていられる一瞬一瞬が、本当に嬉しくてたまらないんだ。明日なんて、来なきゃいいのになあ……」


 そう言うと、智広は静かに両目を閉じる。そして、さして時間も経たないうちに、すうすうと静かな寝息を立て始めた。


 智広の右手には、先ほどまで必死に文字を書き連ねていた手帳が大事そうに収められている。それを目にした松永は、何とも切ない気持ちに捉われた。


 無理はしないと言ってはいるものの、やはり疲労はたまっているのだろう。明日が休みでよかった。検診の予定もないし、昼まで起こさずにゆっくりと休ませよう。それくらいなら、特に支障はないはずだから……。


 そう決めた松永は、しっかりとハンドルを握りしめると、主人を決して起こさないよう、慣れた運転でリムジンを静かに発進させた。

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