第30話

結局、智広のテーブルへと運ばれてきたのは、常ならば全く注文される事など皆無のオレンジジュースが二杯と、辛口のスパークリングワインの一杯。そして山盛りのフルーツ皿であった。


 隣のテーブルでは、No.2ホストの紫雨が常連のキャバ嬢から高級ボトルを落としてもらって、上機嫌になっている。「ありがとう、俺の優しい女神」などと歯の浮くようなセリフを吐き、後輩ホスト達にコールの準備をするように目配せをしていた。


 その後輩達の中には笙もいて、拓海は思いきり顔をしかめた。あの野郎、普段は笙の事を犬とか呼んで、都合よく扱いやがるくせに。


 どんどん盛り上がっていく隣のテーブルを横目にしていれば、まだひと口も付けずに持ったままだった拓海のワイングラスがカチンと音を立てた。何だと振り返ると、智広がオレンジジュースの入った細いグラスを掲げているのが見えた。


「乾杯、兄さん」

「……何の乾杯だよ」

「兄さんとの出会いに感謝して」


 そう言って、智広は笑う。彼の隣にいる松永もグラスを合わせることはしなかったが、静かにそれを掲げて主人にならう。「ああ、そうかよ」とそっけなく返して、拓海はスパークリングワインを口に運んだ。


「あの、それだけでよかった?」


 いらだちはあるものの、長年のホストとしての習性からか、拓海の飲み方には優雅さが滲み出ていた。それをほうっとした表情で見つめていた智広が、そんな事を尋ねてきた。


「もっとたくさん頼んでも、僕は大丈夫だよ?」

「あいにく、こっちはまだ指名があるんだ。お前みたいなストーカーに付き合って悪酔いする訳にはいかないんだよ」

「さすが兄さん。プロフェッショナルだなぁ」


 初めて会った時と似たような事を――。そう思っていると、智広は懐から小さな手帳とボールペンを唐突に取り出し、何やらメモをし始めた。


『話してる間、あいつずっと手帳開いてメモしまくってるんすよ』


 笙の言っていたことを思い出し、忙しなく動いている智広の手元を指差した。


「何、メモってる?」

「ん? 兄さんの事だよ」


 さも当然のようにそう言ってのける智広に、拓海ははっきりと「気持ち悪い」と返す。そしてやめろとばかりに、その手帳に手を伸ばそうとしたところ、松永の太い腕がそれを遮って今度こそ拓海の手を掴んだ。


「智広様の邪魔をするんじゃない」

「離せよ、保護者野郎」

「……」


 自分は何を言われても構わないのだろう。松永はぴくりとも表情を変えず、拓海の手を離さない。智広以上に力があると瞬時に分かって、拓海は振り払おうとするのはやめた。


「秘書じゃなくて、SPの間違いなんじゃないか?」

「そう認識してもらって結構だ。智広様をお守りするのが、私の仕事だからな」

「いいご身分だな」


 にらみ合う二人の険悪な空気に気付いて智広がメモを取る手を止めたのと、何も気付いていない後輩ホストの一人が「拓海さん、次のご指名お願いします」と呼びに来たのはほぼ同時だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る