第29話

「え……?」

「昨日のメシ代だ。釣りはいらねえ」

「ま、待ってよ。いらないよ、こんなの」


 押し付けられた一万円札には全く触れようともせず、智広は勢いよく首を横に振る。その仕草が、かえって拓海のイラつきを増幅させた。


「なるほど。ペルフェクションをぽんと落としてくれた奴にとっては、あれくらい小遣いにもならないって訳か」

「ち、違うよ。僕はただ、兄さんと一緒に食事がしたかっただけで」

「だったら尚更だな。男と同伴する趣味なんか欠片も持ち合わせちゃいねえが、その場合は俺達ホストが金出す事になってんだよ」


 いいから、さっさと受け取れと、拓海はどんっと手のひらを押し付ける。そしてゆっくりと離してやると、智広の胸元の一万円札は支えを失って力なく彼の足元に舞い落ちた。


 それを目で追った智広の顔色は蒼白となった。そんな智広の両肩に手を添えながら、松永が「智広様」と心配そうに声をかける様子を見て、拓海はいくらかばかりせいせいした。


 これでもう、こいつに貸しはない。賢哉さんに言って、今度こそ出禁にしてもらおう。


 そう思いながら、顔を背けた時だった。


「……注文、お願いします」


 ずいぶんと小さい声だった。同じソファに座っていなければ、決して鳴り止まないフロアのBGMにかき消されてしまうのではないかと思えるほどの。


 つい反射的に振り返ってしまえば、まだ顔色は真っ青なままだが、それでも気丈に拓海の方を見つめている智広と目が合ってしまった。


「まだ、兄さんを指名したばかりで、何も注文してないから」

「お前、バカか?」


 智広が何を考えているのか、全く分からない。ここまで拒絶しているのを如実に見せているというのに、か細い優男という見た目に反してずいぶんと頑固だ。


 だが、先ほども松永が言っていた通り、今この場では智広は客。特に何か問題を起こした訳でもないし、しかもペルフェクションを落としたという事実を持つ太客――。


 心の底から「帰れ」と言いたかったが、それを何とか喉の奥へと押し込め、拓海はテーブルの上に置きっぱなしにされていたメニュー表を指差した。


「何飲む?」

「……兄さんが、好きなものを何でも頼んでいいよ」


 ホスト遊びに手慣れた女みたいなセリフを吐いてんじゃねえよ。


 そんな言葉も何とか我慢する代わりに、拓海は手早くメニュー表を開く。だが、男から何でも頼んでいいと言われてもおもしろい訳もなく、一応の体で聞いてみた。


「甘口と辛口、どっちが好みだ?」

「え?」

「お前、ペルフェクション頼んだくせに、ひと口も飲まずに帰っただろうが。昨日も本当にメシしか食わなかったし」

「僕は、いいよ」

「あ?」

「お酒飲んだ事ないから」


 思わず舌打ちが出た。童顔に近い顔立ちだが、それでも成人を越している男が一度も酒を飲んだ事がない? ホストクラブ舐めてんのか?


 メニュー表から視線を上げてにらみつけていれば、何を勘違いしたのか智広はあははっと苦笑を漏らしながら言った。


「あ、松永もダメだからね。厳つく見えるだろうけど下戸げこなんだから」

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