第27話
『Full Moon』開店一時間前になった頃、笙がものすごい勢いで更衣室に飛び込んできた。
またギリギリまで大学にいたのだろうか、くたびれているパーカーは汗だくになっているし、ぜいぜいと切れる荒い息遣いは治まりそうにない。
昨夜置いて帰ってしまった詫びという訳でもないが、他のホスト達と同様、すでに着替えを済ませていた拓海は手元にあったミネラルウォーターの入ったペットボトルを笙に投げてよこした。
「着替える前に飲んどけ。悪酔いしちまうぞ」
「あ、どもっ……。頂くっす!」
何とか言葉を紡いだ後で、笙がミネラルウォーターに口をつける。よほど喉が渇いていたのか、半分以上が一気に消えていった。
ぷはあっとうまそうに息を吐き出す笙を見る限り、特にいつもと変わりないなと拓海は思う。あれから俺がいなくなった後で、あいつに変な事を吹きこまれてやしないかと思っていたりしたのがバカらしくなるほどだ。
まあ、とにかく一言謝っておくかと、拓海はロッカーに向かおうとする笙の背中に話しかけた。
「笙。昨日は変な事に巻き込んで」
「拓海さん。あいつ、変な奴っすね」
悪かった、と最後まで言い切る前に、笙が肩越しに振り返る。何だか苦笑いをしているように見えた。
「何かされたのか?」
眉根を寄せてそう聞いてやると、「されたというよりはぁ~」と前置きした後で笙は答えた。
「いろいろしつこく聞かれた感じですかね。あのリムジンでアパートの近くまで送ってくれたのはいいとしても、それまでずっとマシンガンでしたもん。兄さんはどんな人だとか、普段あなたとどんな話をしてるんですかとか、他に兄さんの好きなものを知らないですかとか」
「まさかお前、人の個人情報をベラベラと」
「やめて下さいよぉ。リスペクトしてる拓海さんの事、ほいほい漏らす訳ないっしょ!? それに話してる間、あいつずっと手帳開いてメモしまくってるんすよ!?」
「メモ?」
「忘れないようにしなきゃとか言ってて、すげえ必死にメモしてたっすよ。本当にあいつ、拓海さんの」
「違うからな」
今度は笙に最後まで言わせなかった。きっぱりと被せるようにして言い切ると、拓海はくるりと背中を向けた。
「もうすぐミーティング始まるぞ。さっさと着替えろよ」
「あ、はいっ!」
更衣室から出ていく拓海を見送ってから、笙は急いでロッカーの中にある自分のスーツを引っ張りだす。そしてそのままの勢いで着替え始めたが、ふとぴたりとその手が止まった。
「でも、あいつ……どっかで見た事あるんだよなぁ。どこでだったっけ?」
笙の独り言は、他に誰もいない更衣室の中に静かに溶けて消えていった。
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