第26話

二歳の時のあまりにも遠い記憶だというのに、こうして目を閉じればありありと思い出せるし、ずいぶんと嫌な気分になれる。


 右肩に何重にも巻かれた包帯。そんな幼い自分を置き去りにしていく腹まわりの太い女。何度手を振っても、その顔は決して振り返らない――。


「これから先どんな事があったって、あの時以上にクソだと思える事なんてねえからな。その確認をしてんだよ」


 そう言うと、拓海はゆっくりと立ち上がって腰の周りに付いた土埃を両手で雑に払う。それを見ながら、ミチは「ふうん」と鼻が抜けるような返事を返した。


「あたしは、ちょっとうらやましいと思うけどね」

「は? 何が?」

「ほら。あたしって三歳でここに来たでしょ?」


 ミチはシングルマザーをしていた二十歳の女性の一人娘として三歳まで育ったが、ある日その母親が突然亡くなった。詳細は分からないが、何やら事件に巻き込まれたらしく薬物中毒で死亡しているところを発見されたという。父親はどこの誰か知れず、母親の両親も引き取りを拒否した為に、ミチは『太陽の里』へやってきた。


「ここに来た時の事、全然覚えてないもん。怪我はしてなかったみたいだけど」

「……」

「拓海は覚えてるから、ちょっといいなあって思ってたりして。あたし、お母さんの事、写真でしか知らないから」

「俺だって、顔なんか覚えてねえよ」


 覚えているのは、決して振り返らなかったあの後ろ姿だけだ。今更振り向いてもらいたい訳でもないし、会いたいという気持ちすら微塵も起こらない。今のままでいい。今のままで、充分幸せだった。


 それなのに、あいつが……。


 そこまで考えた時、ふと昨夜の事を思い出した。そして何の気の迷いか、拓海はミチに聞いてみたくなった。


「なあ、ミチ」

「何?」

「お前、母親の悪口言われたらムカつくか?」

「え?」

「写真でしか知らなくて、会話もした事ないような。そんな身内の悪口言われても、ムカつけるもんか?」


 突然の拓海の質問に、ミチは始めキョトンとするばかりであったが、ほんの少しの間を開けたところで「たぶん、ムカつく」と答えた。


「正直、お母さんの事は全然覚えてない。メチャクチャかわいがられてたかもしれないし、虐待されてたかもしれない。どうやって育てられたのかとか分かんないし、思い出も何一つないし」

「……」

「でも、きっとムカつく。あたしの事を元気に生んでくれた人、意味なく悪く言われたら、たぶん超ムカつくと思うよ」

「……」

「何? どうしたの?」


 ミチらしい答えだと納得したものの、拓海は同調する事はできなかった。


 俺には、無理だ。


 でも、あいつは怒ったのだと彰人という男は話してくれた。


 全く意味が分からないと思った。

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