第20話

だが、そんな思いは『Full Moon』のフロアのある階を降り、賃貸ビルの裏口ドアから出た瞬間、粉々に打ち砕かれた。昨夜からの頭痛の原因ともなった青年が、賢哉のものと遜色そんしょくない笑顔で待ち構えていたのだから。


「兄さん!」


 これから笙をどこかうまい店にでも連れていって、たらふく食わせてやろうと思っていたのに。頭の中でどこの店にしようかとあれこれ考えていたというのに、何で黒塗りのリムジンを伴ってここにいるんだ。


 そう叫びだしたいのを必死に抑えこんでいる拓海を、笙は不思議そうに見上げていた。


 それもその通りで、昨夜の事を彼には一言も話していない。賢哉や他のホスト達も拓海が否定している以上、深く詮索してくる事もなかったし、ほいほいと笙に吹聴する事もなかった。


 しかし、この目の前の青年――佐嶋智広はそんな事など実にどうでもいいと言わんばかりに、足早に拓海に近付くとその両手をぎゅっと掴んできた。


「兄さん、迎えに来たよ」

「あいにく、迷子になるような年じゃない。俺に構うな、とっとと」

「兄さん、僕だよ。佐嶋智広、あなたの弟です」


 止める間もなく、昨日と同じような言葉を吐いた智広に、やはり笙も驚きの表情を隠せなかった。昨日の賢哉達と違う部分があるとするならば、若干の間を空けた後、拓海を隠すように前に出て、智広をにらんだところだろうか。


「おい。あんた、いきなり何なんだよ」


 笙が言った。


「この人が誰だか分かって声かけてんのか? 孤高にして伝説のホスト、『Full Moon』No.1の拓海さんだぞ? 馴れ馴れしく話しかけんな」

「えっ、そうなの!? 兄さん、そんなにすごい人なんだ」


 智広の顔がぱあっと明るくなる。拓海はますますおもしろくなかった。


 こいつ、本当に気に食わねえ。てめえがペルフェクション入れたからだろうが! しかも、あの松永って奴が後からバカでかいジェラルミンケース持ってきて、現金一括で余裕綽々よゆうしゃくしゃく払っていっただろうが!


 まるで何でもなかった事のような態度を見せる智広に、どんどんいらだちが募ってくる。笙の方は智広の「弟」という単語に首をかしげていた。


「何言ってんだよ。拓海さんはな、天涯孤独のホストとして知られてんだぞ。弟なんているはずない」

「僕は、兄さんの弟です」


 頑なにそう言い張って聞かない智広に、拓海はもううんざりだった。さらに何かを言おうとする笙の肩を掴み、こっちを振り向かせる。


「もういい。こいつに構うな、行くぞ」

「え? あ、はいっ!」


 慌てるような返事をする笙を連れだってこの場を離れようとする拓海だったが、智広はすかさずその前に立ち塞がった。


「兄さん、今日はお休みなんでしょ? ごはん食べた?」

「何でうちの店の休業日を……。まあいい、今からこいつと食いに行くんだ。邪魔すんな」

「じゃあ、僕も! 僕も一緒に行くよ!」


 いつの間にか、拓海と笙は腕を片方ずつ掴まれていた。そして、その細い体のどこにそんな力があるのだとばかり、二人そろってリムジンまで強引に引っ張り込まれた。


「松永、出して」


 運転席には松永が座っていた。松永は無言で頷くと、降ろせこの野郎などと後部座席で騒ぐ拓海や笙を気にする素振りを見せる事なく、静かにアクセルを踏み込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る