第5話
拓海は、己の出自を何一つ知らない。どうして自分の右肩にこんな大きな古傷があるのか、その記憶すら持っていなかった。
拓海が持つ一番古い記憶は、ずいぶんと昔。舞い散る桜吹雪の中、右肩に包帯を巻かれている幼い自分を、一人の女がある養護施設の敷地内に置き去りにしていったというものだった。
その養護施設を運営している施設長が、拓海を発見したのはそう遅い時間ではなかった。桜の木の下でぼんやりと突っ立っていた拓海は、施設長に気が付くと、たどたどしい口調で「これ、どうぞ」と左手に持っていた一枚の紙切れを差し出したという。
『この子の名前は拓海です。
誕生日は四月三日で、今年で二歳になります。
よろしくお願い致します。』
それ以外に替えの服といった所持品はおろか、手がかりとなるものは何一つなかった。適切な処置はされていたものの、右肩の傷は幼子が負うにはあまりにもひどく、痛々しい。
道ですれ違った身重の女が母親であり、何かしらの事件性があるのではと考えた施設長の
結局、戸籍があるかも不確かであったその子供は、様々な手続きを執り行った後、新藤祐介とその妻・
あまりにも幼いゆえに、置き去りにされる以前の事を覚えていないその子供は、自身の名が
厳しくも優しく接してくれる新藤夫妻は、本当の両親ではない事。
今、自分が暮らしているこの家は普通の家庭ではなく、周囲にいる子供達とも血の繋がりはない事。
風呂に入る度、大きな鏡に映る右肩の傷は、おそらく誰かに故意に負わされたもの。
その誰かは、きっとあの女だ。はらはらと、ピンク色の花弁が宙を舞う中、自分を置き去りにしていった母親と思しきあの女だ――。
拓海は、新藤夫妻の庇護の下、健やかに育った。彼らの育て方の賜物もあり、特に荒れるような事なく、高校の卒業を迎えた十八歳までを養護施設で育ち、やがて自立した。
だが、自身が捨てられたという事実を否が応でも連想させてしまう春を、とりわけ桜を極端に嫌う性分となってしまった。
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