第116話
二日後。杠葉さんから事務所に呼び出された深山愛子は、俺や今日子ちゃんの予想通り、ずいぶんと深刻そうな顔をしていた。そんな彼女を見て、杠葉さんはかなりわざとらしくすっとぼけながら、「どうかされましたか?」なんて尋ねていて……。
「え、ええ。実は……」
何も知らない深山愛子は、ふうっと大きなため息を一つついてから答えた。
「同僚が今日、会社を辞めてしまったんです」
「まあ、同僚の方が?」
「ええ。まだ少し先の話になるんですけど、私、今の会社から独立して新たなブランドを立ち上げようと思ってて。だから彼――いえ、その同僚さえ会社に残ってくれれば、安心して旅立つ事ができたんです。ものすごく優秀な人材だったので」
「そんな人が、急にですか?」
「はい。親御さんと一緒に田舎に引っ越すからと、本当に急に。あいさつもそこそこで……」
深山愛子はちょっと落ち着きをなくしているのか、そわそわと全身を揺らしながらそう言う。まあ、何も知らない彼女からすれば本当に理解しがたい事だろうな。自分と同等に仕事ができて、プロポーズまでしてきた男が急にいなくなるなんて事は。
「……もしかして、気になる方だったんですか?」
じっと見据えてくるように視線を向けながら、杠葉さんが尋ねてくる。おいおい。その会話、胸元に隠している超小型のピンマイクを通して、別の場所で待機しているタツさんにも丸聞こえだっていうのに。もし、彼女が頬を赤らめでもして「はい」なんて答えた日には、タツさん立ち直れないぞ……!
だけど、深山愛子の返事はハラハラしながら聞いていた俺の予想に反し、「いいえ」と小気味いいほどきっぱりと言い切った。
「同僚として、そしてライバルとしては本当にいい人だとは思ってましたけど、男性として見た事は一瞬だってないです。もう恋愛事はこりごりっていうか……ちょっと、自信が持てないので」
「自信?」
「前の旦那以上に、他の男性を好きになれる自信が。おかしいですよね。いつまでも夢ばっかり見てるところがダメなんだと考えたから別れたのに、いまだにそれがあの人の長所であって、絶対に変える事ができない一番の魅力なんだって思ってるんですから」
「……」
「もしかしたら、前の旦那に今も嫉妬してるのかもしれません。そりゃあ傍目からすれば、私の方が夢をしっかり叶えた成功者に見えるかもしれないけど、私から見たら彼の方がよっぽど幸せに見える事が多々あるんです。だからかな、息子をダシにしてケンカを吹っかけてしまうのは」
あ、これ内緒ですよ? と、困ったように笑っている深山愛子は、まさか自分のその言葉全部がタツさんにしっかり届いているなんて夢にも思ってないだろうな。彼女の今の顔、タツさんに見せてあげられなくて残念だなと思っていたけど、気を利かせてくれたのか、今日子ちゃんがシャッター音が鳴らないよう改造してあった手のひらサイズのカメラを深山愛子に向けているのが見えた。今日子ちゃん、グッジョブ。
「あ、あの……ところで、今日は?」
自分がちょっと恥ずかしい事を言ってしまった自覚はあるようで、深山愛子が少し焦ったような声色でそう尋ねてくる。よし、待ってました。ここからが今日のメインイベント、タツさんの演技力の見せ所だ。
「はい。今日お呼び立てしましたのは、ご依頼内容の完了をご報告する為です」
そう答えると、杠葉さんはゆっくりとソファから立ち上がる。俺や今日子ちゃんも同じように立ち上がった。
「よろしければ、これからすぐ行ってみませんか? ダラダラと報告書をお見せするより早いと思います」
「え……」
「百聞は一見に如かず。その目で、今の元旦那さんを評価してあげて下さい♪」
彼女の反応が楽しみで仕方ないんだろう、杠葉さんがいたずらっぽく声を弾ませながら言った。
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