第103話
杠葉さんから「今日は皆さん、定時で上がって下さい」の一言もあって、この日は皆、定時で仕事を切り上げて事務所を出る事になった。そんな中、今日子ちゃんだけはいつもと全く変わらない調子でノートパソコンを専用のバッグに詰め込みながら、
「それではお先に失礼します。明日の朝には田沢良一宅のセキュリティを乗っ取れるようにしておきますので、皆さんはそれぞれのご準備を」
なんて、物騒な事を言いながらさっさと帰っていき、その後ろ姿を見送ったいたタツさんの口から大きなため息が漏れた。
「……本当、自分が情けねえよ」
俺と一緒に事務所を出たタツさんが、心底やりきれないと言わんばかりにつぶやいた。
「今は元嫁さんだとしても、かつては心底惚れた女だぞ? 息子だって生んでくれて、世界で一番感謝している女なんだ。そんな相手に見栄を張る為に大がかりなだましをしかけるわ、危ねえ男から守ってやるにしてもやり方は最低だわで、情けねえ以外の何物でもないぜ」
「そ、そんな。確かに強請り自体は最低だとは思うけど、あんな奴に元奥さん渡すくらいなら……」
「まあな。同じ男から見ても、あいつはやべえわ。愛子が不幸になる未来しか見えねえ」
そう言って、タツさんは額に手の甲を押し付ける。その上で、何か集中しているかのようにぶつぶつと口の中で言っていたが、あまりにも小声だったからよく分からなかった。
声をかけたら邪魔をしてしまうような気になった俺は、一度立ち止まってタツさんからほんの少しだけ距離を取った。その際、何となく気になってちらりと事務所の方を振り返ってみれば、ドアの戸締りをしている杠葉さんの姿が目に留まった。
「はぁ……」
実際は、杠葉さんの口から漏れ出た息の音なんて聞こえていない。遠目になっていた事もあって、彼女の表情の細かいところまで見えていた訳でもない。でも、もし俺の視力が著しく落ちていたんじゃなければ、確かにそう見えたんだ。杠葉さんのものすごく悲しそうな姿が。
単独で強請りをするなってさっきは言ってたけど、前回の強請り屋業だってよくよく考えてみれば、結局は杠葉さん一人で交渉に入ってたじゃないか。タツさんや俺はあくまで脅しと見張り役として突っ立ってただけに過ぎないし。あ、もしかして今回も証拠や準備が整えば、自分一人だけでやってしまうつもりだったんじゃ……。
「あの、タツさん」
まだブツブツと何か言ってるタツさんの邪魔はしたくなかったが、やっぱり言っておかねえと。そう思った俺が、先を歩いていくタツさんの後を追いかけ始めた時だった。
「なあ、聡。今回だけは俺がメインで強請らせてもらってもいいよな?」
そう言いながら、タツさんが振り返る。さすが元役者、何かしらのスイッチが入ったみたいに表情が変わっていた。
「ああいうキモイ野郎から、家族守りたいんだよ……」
「……それだけは、最初っから反対してないっすけど、でも杠葉さんが」
「大丈夫。杠葉さんにはちゃんと譲ってもらうから」
杠葉さんはこうなる事を分かってたのだろうか。だからあんなに悲しそうな顔をしていたんだろうかと、俺は一人でそんな事を思った。
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