第95話

今日子ちゃんから教えられていた尾行術は、とにかく付かず離れずという事だった。尾行というだけあるのだから、当然追っている相手に気付かれてはいけない。その為にはあくまで偶然にも、全く同じ方向に向かっているだけですよと言えるだけの距離を常に保ちつつ、曲がり角に差しかかったり乗り物に乗り込まれる際には決して引き離されず、すぐに追い付けるだけの体力も維持する。それらの実現に最も適している間隔距離が、およそ8メートルらしかった。


 その8メートルほどをしっかりと保ちながら、杠葉さんは田沢良一を追跡している。俺はただついていくだけしかできなかったけど、周囲の誰にも尾行をしているとは気付かせないほど、杠葉さんはとても自然体で歩いている。ぱっと見だったら、仕事帰りのOLくらいにしか見えないと思う。


 仕事帰りといえば……と、俺は昨日、『Pretty Butterfly』の社員名簿データばかりか、個人の業務成績を示したデータも掠め取ってくれた今日子ちゃんの言葉を思い出した。


『田沢良一という男なんですが、深山愛子に続く腕前の持ち主で、デザイン開発室No.2といった感じでしょうか。時には彼女に迫る勢いで仕事を成功に収めてきた場合もありますが、それでも業績トップを獲った事は未だになし。もし聡さんが感じた通りの人物であるとすれば、杠葉さんの出番があるかもしれませんね?』


 そう言いながら、田沢良一の個人情報をプリントした紙を手渡してきた今日子ちゃんの満面の笑みがちょっと怖くなった事まで思い出して、背中に冷たいものを感じた時だった。


「……いけない、バスに乗るわね」


 杠葉さんの小さな声にはっと前を見てみると、田沢良一は目の前のバス停に足を向けようとしているところだった。確か彼の自宅は『Pretty Butterfly』からバスで二十分ほどの距離だったような……。


「ど、どうしますか、杠葉さん」


 できる事ならここで尾行終了か、譲歩に譲歩を重ねて彼の自宅前まで先回りしておくかの二つに一つの選択肢を選んでほしかったんだけど。


「決まってるでしょ、一緒に乗るわ」


 ほんのわずかでもターゲットの情報を得たいという探偵の性がそう言わせるのか、田沢良一以外は誰もいないバス停へと迷うことなく早足で向かっていく杠葉さん。何も抗う術を持ってない情けなさ全開の俺は、それに従うしかなかった。


 バス停のすぐ側まで辿り着くと、俺はすぐに胸ポケットに入れていたサングラスをかけ、できるだけ彼の視界に入らないようにと不自然じゃない程度に顔を逸らす。だが、彼は俺や杠葉さんが一緒に並んできた事など全く意にも介さないで、スマホをいじっている。相変わらず尾行には気付いてないようだった。


 それはそれでいい事なんだろうけど、何だかちょっとムカつくのも事実だ。こっちはいつ見つかって、「お前、昨日会社で会ったよな?」とか何とか言われやしないかってハラハラしてるっていうのに。


 俺のこの尋常でない緊張感に対する責任を取れと怒鳴ってやりたいのを必死に堪えていたら、ふいに田沢良一のスマホが着信の音を奏でた。


「……はい。ああ、大丈夫。今日も定時で終わったよ」


 電話に出た田沢良一が、上機嫌に話し出す。それを横目で見ていた杠葉さんの口角が確信を得たかのように持ち上がっていったのを、俺は見逃さなかった。

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