第94話

次の日の夕方、俺はまた『Pretty Butterfly』のオフィスビルの前に立っていた。正直、逃げ出したい。昨日の今日で、またここに来る羽目になるなんて思ってもなかったし、もし万が一にもあの受付嬢とかに会っちまったらどうすんだよ。


 そんな事を何度も思いながら、ちょっと恨みがましい目で見ていたせいか、一緒に来ていた杠葉さんが俺の思考を丸読みしていたかのように「心配しなくていいわよ」と言ってきた。


「同じ場所に同じ人間を何度も潜入させるなんて、そんなのは二流三流のする事。それにほら、今日子ちゃんも協力してくれたおかげでこの通り」


 すっと差し出されて来た杠葉さんのきれいな手のひらの中にあるのは、何の変哲もないスマホ。だが、そのスマホの液晶画面に映し出されていたのは、今日子ちゃんの自作だという映像傍受アプリがもたらす動画であり、『Pretty Butterfly』の四階フロアの様子がこれでもかとばかりによく見えた。


「今日子ちゃんには毎度驚かされるわ。どこの会社も機密漏洩を恐れてるもんだから、ある程度以上のファイアウォールは仕込んでるだろうけど、まさか『Pretty Butterfly』の監視カメラシステムにも入り込めるなんて」

「こんな事ができるんなら、昨日の俺の努力ムダじゃないっすか……」

「そんな事ないわよ。あいにくこのアプリは容量の問題で、音声までは拾えないもの。何を話しているのか分かんなきゃ、ターゲットの人となりは分からない。そういう面では、聡くん大手柄だったわ」

「ターゲットって……どうしてそんなに、田沢良一を?」

「昨日も言ったでしょ? とにかく鼻につくの」

「それだけですか!?」

「自分の直感を信じなきゃ、探偵は務まらな……あ、出てきたわよ聡くん」


 側にあった大きな街路樹の幹の影に杠葉さんの細い体がすっと隠れたので、俺も慌てて後に続く。そして彼女と一緒にそっと覗くように『Pretty Butterfly』のビル入り口を見てみれば、そこから田沢良一が悠々とした足取りで出てきたのが見えた。


「読み通り、タツさんの元奥さんは一緒じゃなかったわね」


 ほっと安心したかのような息を吐いてから、杠葉さんが言った。読み通りって、どういう事だ?


「杠葉さん、それって……」

「追うわよ、聡くん。8メートル間隔を忘れないようにね」


 俺の言葉を遮って、杠葉さんが街路樹の影から出る。その目はまっすぐに、少し先を歩く田沢良一の背中を捉えていた。

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