第90話
「医務室に行くんなら、ついてってやろうか?」
「い、いえ……大丈夫です」
俺はまた首を横に振りながら、少しずつ後退する。そのせいで深山愛子の手が俺から離れていったが、心配そうにこっちを見てくる顔があったからなんかちょっと罪悪感っていうか、意味のない事をさせて申し訳ないって気持ちになってきた。
「ひ、一人で行けるんで……すんません、休憩中のところを」
「ううん、いいのよ。でも、本当に大丈夫なの?」
深山愛子も首をほんのちょっとかしげながら尋ねてくる。俺のボキャブラリーじゃ、ごまかすのもここまでが限界だ。もう一刻も、いや一瞬でも早い撤退が必要だ。
「は、はい……場所、分かるんで」
「そうか、じゃあ大丈夫だな」
その時だった。ふいに、俺の中で妙な違和感が生まれたのは。
ちょっと顔を上げて見てみれば、そこにいたのは偶然居合わせた若い社員を心配しているって感じがまるでないどころか、ひどく不愉快そうに口元を歪めていた田沢良一だった。言葉自体は良識があって、本当に具合が悪い時にこんなふうに声をかけてもらえたらちょっとは気が晴れて心強くなるんだろうけど、今の彼の表情を知ってしまったら、とてもそんな気になれない。まるで、「大丈夫なんだったら、とっととここから出ていけよ」といった感じの本音を必死に抑えつけてるみたいな……。
「ほら、早く医務室に行くんだ」
田沢良一が言った。
「ここより、医務室で休んでいた方がずっといい。ベッドもあるし、カウンセラーの先生だって今の時間ならいると思う。歩けるうちに行っておいた方が、君の為だぞ」
「は、はい……ありがとうございます」
彼がしゃべればしゃべるほど、俺の中の違和感がぐんぐん限界知らずに育っていく。俺はそっと頭を下げて礼を言うと、何か言いたそうだった深山愛子に気が付かないふりをして、くるっと背中を向けた。
「し、失礼します……」
そのまま喫煙コーナーの出入り口のドアをくぐり抜けるまで、できるだけゆっくりと具合が悪いふうを装いながら歩いた。そして後ろ手でドアを閉める……と見せかけて、数センチ空いた状態を保ち、その場に勢いよくしゃがみ込んでから、右手の中の盗聴器を数センチの隙間に覗かせた。
『この盗聴器は、五メートル圏内でしたら充分音を拾ってくれます。それから数センチ差し込む箇所さえあれば、機能も充分正常に働きます。もしかしなくても、今の聡さんよりはずっと優秀かと……』
そんな憎まれ口を言っていた今日子ちゃんにちょっとイラッとしたものの、今ばっかりは感謝しなくちゃな。俺がいなくなったと思って、さっきのプロポーズが何たらと話を戻した田沢良一と、それを聞いている深山愛子の会話を俺はできるだけ長く録り続けた。
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