第89話
「何か顔色悪いようだけど……君、どこの部署の人? 誰か呼んでこようか?」
田沢良一の目が、俺の首のあたりをちらりと窺い見てくる。彼の首元には社員証入りの吊り下げプレートがあったから、たぶん同じ物を見つけて確認したいんだろう。何とか上半身を屈める事で見えにくくはしてみたけど、それだってほんのわずかな時間稼ぎにしかならない。俺は口元を押さえたまま、ふるふると首を横に振った。
「だ、大丈夫、です……。ちょっと、次のプレゼンの事で徹夜が続いてて……」
「え、そうなのか?」
二人が話していた会話の内容を思い出し、とっさに使わせてもらった嘘を田沢良一はいともあっさりと信じた。それだけプレゼンって奴は大変なもんなのかと思っていたら、ふわりと優しい感触が背中を撫でた。
「それは大変だったわね。誰か先輩の補佐をしてるんでしょうけど、あんまり無茶しちゃダメよ」
ちらりと視線だけ向けてみれば、田沢良一とは反対側に立った深山愛子が俺の背中を心配そうにさすってくれていた。
これはまずい、二人にがっつり挟まれた。屈んだ状態じゃ急に動く事もできず、右手の中の盗聴器だっていつ見つかるか分かったもんじゃない。存在を殺して情報収集どころか、もうしっかりばっちり存在を認識されてしまった。どうする、どうする……!
探偵マニュアルその⑤――万一、調査対象者に自分の存在を知られたり、目的がバレてしまった時は即座に撤退。捕まったら一巻の終わり、人生詰むと思って、全速力で逃げる事。逃げ切れなかった場合は全て自己責任。せめて使用していた探偵道具は破壊して、後は運命に身を委ねて覚悟を決めなさい。
そんな覚悟決められるか! タツさんの為と思えばこそ今回は協力しただけで、こんなマニュアルにどっぷり従うつもりはねえ!
顔をはっきり覚えられる前に逃げようと、俺は一歩後ろの方に足を引く。思いの外、その足音がカツンと床に響いたので、田沢良一が「うん?」と首をかしげて俺の足元を見た。そしてまた「大丈夫か?」と尋ねてきた。
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