第87話
チンッと小気味いいチャイム音を鳴らして開かれていくエレベーター。四階である事を再確認してからゆっくりとした足取りで降り、一度あたりを見渡す。皆、各部署のフロアで仕事をしているようで、エレベーターの前には人影一つ見当たらなかったし、予想通り、トイレもすぐ目の前にあった。
あの受付嬢の子には申し訳ないけど、ここまで来たらさっき渡された入社パスは必要ない。俺は誰にも見られないうちにトイレに向かい、一番奥の個室に滑り込むようにして入ると、持っていたダンボール箱を早々に開けた。
探偵マニュアルその④――いついかなる時でも、自分の存在を殺し続ける事を意識しておくべし。時に情報は、向こうの方から勝手に提供してくれる場合もあるので、水を吸い込むスポンジにでもなったつもりで、どんな些細な事も聞き漏らさず、物静かに持ち帰ってくる事。
ダンボール箱に入っていた真新しい背広に着替え直して、そのままトイレの隣に併設されている喫煙コーナーの端っこを陣取る。ちょうどいい具合に大きな観葉植物の鉢が置かれている上、蛍光灯の光に逆らうように縦に伸びた影ができているんで、それに添うようにちょっと猫背で立ってみたら、窓に写っている俺の姿は何とも情けない感じに映って見える。さしずめ、何かしら大きなミスをやらかしてへこみまくっている新入社員って感じかな?
もし杠葉さんに出会う事なく、奇跡的に就活もうまくいって普通の企業に就職できていたら、本当にこんな事になってたかもしんねえなぁと苦笑いを浮かべていたら、ふいに何人かの足音が近付いてくるのが分かった。俺は慌てて顔をうつむかせ、只今絶賛落ち込み中なんで話しかけないで下さいオーラをこれでもかってくらいに放ち始めた。
すると。
「……深山さんのデザインは、相変わらず素晴らしいですね。どれもこれも斬新で、誰の目も引き付ける映え具合というものをよくご存じだ」
「あらやだ。そんな事言っても今度のプレゼンは手加減しませんからね、田沢さん」
「これはまた厳しい事を」
やってきたのは二人の男女で、そのうち女性の方は深山愛子だった。ユズリハ探偵事務所で直接鉢合わせてはいないものの、それでも俺の顔を知られるのは面倒なので、俺はさらにうつむく。右手には、以前の裏オプションでも使った指向性の盗聴器を持ったままで。
びっくりした。いや、まさかいきなり調査対象の田沢良一が深山愛子と一緒に出てくるなんて思わなかったから。ええ~っと叫び出したかったのを必死に堪えながら、俺は盗聴器の録音スイッチを押した。
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