第79話

「失礼します、四時にお約束してました深山みやまです」


 壁の時計が午後四時ぴったりを差したタイミングに合わせて、杠葉さんと同じくらいピシッとした紺色のレディーススーツを着た三十代の女性が事務所へとやってきた。タツさん同様、多少は年を取っていたが、間違いなくあの写真立ての中の写真に写っていた母親に間違いなかった。


「くっそぅ。愛子あいこの奴、マジだったのかよ……」


 元夫の素行調査を頼んでくるあたり、依頼者も女同士の方が話しやすいだろうし、何よりここにタツさんがいるのはまずいでしょうと杠葉さんに言われるが早いか、俺とタツさんは狭い給湯室に押し込められた。大人二人が何とか立っていられる狭苦しさの中、ドア側にいるタツさんが悔しそうにそうつぶやく。おいおい、まさかとは思うけど。


「ちょっ……タツさん。もしかして、奥さんがこういう行動に出るって分かってたんっすか?」

「い、いや……実は先月の面会日で会った時、ちょっとやっちまって」


 そう切り出されてから、タツさんから小声で事の次第を聞かされた。


 俺の年の頃にはもう結婚して、健太君を授かったまではいいものの、劇団員を辞めた直後の二人の収入なんて雀の涙程度のものだったらしく、生活苦のストレスから些細な事で口論が絶えなかった。そしてケンカ別れの延長みたいな形で離婚に至り、健太君の親権は揉めに揉めた上でタツさんに軍配が上がった。


 そのまま健太君を頑張って育てていたタツさんだったけど、どんなに必死に働いてもやっぱり生活は苦しかった。だから、悪い事だとは充分承知していた上で盗みをしようと試みたらしい。そのターゲットにしたのがここ――ユズリハ探偵事務所であり、案の定、まだ仕事で居残っていた杠葉さんと今日子ちゃんに見つかった。


 パニクって居座り強盗どころか逃げる事すら頭に浮かばなかったタツさんは、見つかった瞬間に土下座して、聞いてもないのに事の敬意をベラベラとしゃべった。そして、「どうか息子の健太を頼みます」と自ら110番通報しようとした時、杠葉さんからスカウトを受けたという。


「『元奥様や健太君には、ある企業子会社に就職が決まったと言えばいいし、それ相応のお給金も出しますよ? それとも健太君にまで見放された上、冷たい鉄格子の中で寂しい余生を送る準備をなさいますか?』とか言われてさ。本当にありがたかったなぁ、杠葉さんが女神に見えたよ」

「……魔女の間違いっしょ!? 人員確保の為に、コソ泥を強請っただけじゃないですか!?」

「まあ、そうとも言えるな」

「そうとしか言えませんって。それで、その提案を飲んで今に至るって事ですよね……」


 俺はほんのちょっとタツさんの体を押しやると、首だけを伸ばして何とかドアの向こう側を覗き込んだ。すると例のソファーに腰かけていた元奥さん――深山愛子が少し険しい顔で「ええ、そうです」と相槌を打っているのが見えた。

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