第55話

あ、ヤバい。これはもう、マジでヤバい。そう思えるくらい、俺は生まれて初めての激しい不快感に襲われた。


 実際は、まだ何を見ているのかも分からないし、ターゲットがしゃべった一言を聞いただけだ。だけど、とても小学生の子供が口にしたとは思えないようなセリフと声色が、俺の鼓膜から脳の中へと流れこんでいき、それがこれ以上はないってくらい大量の不愉快さを生み出して、俺の全身を一瞬で駆け巡っていく。その証拠に、俺の腕にはひどい鳥肌が立ってしまってた。


 こいつはダメだ。早くどうにかしないと、きっとそのうち取り返しのつかない事をしでかすはずだ。そうなる前に……。


 気が付いたら俺の両足は勝手に動いていて、一本目の街灯の影からするりと抜け出していた。その次は両腕が勝手に前へと伸びて、二本目の街灯の光の下にいるターゲットへと向かっていく。もう、こいつを捕まえる事しか頭になかった。


 そんな俺の肩を、力強い手ががしりと掴んだ。痛いくらいのその大きな手に、はっと我に返った俺が振り返ってみれば、そこには少し息を切らしたタツさんがいて、タツさんの後ろでは杠葉さんが何故かひどく驚いたような表情をしていた。


「無理すんな、聡。俺がやるから」


 タツさんはそう言うと、あっという間に呼吸を整えて、ぎゅうっと口を真一文字に引き結んだ。たったそれだけでタツさんの雰囲気ががらりと変わり、完全に俺の知らない違う人物へと化けた。


 その、一瞬後の事だ。


「おい、そこのガキ。なかなかおもしろい物見てるなぁ~?」


 初めて会った時の、あのドスの効いた声を喉の奥から絞り出したかと思えば、タツさんの体は素早くターゲットの背後に回って、その両腕を片手で難なく抑え込んだ。


「え……? えぇっ!?」


 突然の出来事に、当たり前なんだろうけどターゲットは一切の抵抗もできずにタツさんの腕の中に捕まった。混乱の中、少しもがいてみたものの、大人と子供の力の差は歴然だ。敵うはずがない。


「だ、誰か……うぐっ⁉」

「おっと、危ない。俺達が用があるのはお前ら家族なんだ、余計な奴らはいらねえんだよ」


 助けを求めようと叫びかけたターゲットの口を、タツさんのもう片方の手がしっかりと塞ぐ。そして「確保完了です」という合図の声と共に、すうっと凪いだような表情に変えた杠葉さんが近付いていった。


「ご苦労様です。スマホは?」

「はい、どうぞ」


 タツさんはまだもがこうとするターゲットの手首を捻るようにして、持っていたスマホを差し出させる。杠葉さんは間髪入れずにスマホを取り上げ、ターゲットが見ていたであろう画像を確認した。

 

「なるほど、確認すればまだまだ出てきそうですね。今日子ちゃんに作ってもらった甲斐があったというもの……」


 ターゲットには聞こえないくらいの小声でつぶやいた杠葉さんは、肩に提げていたバッグからノートパソコンを取り出し、その端から伸びているUSBケーブルをスマホに繋げる。すると液晶画面は数秒と経たないうちに忙しく切り変わっていき、杠葉さんは満足げにターゲットに向き直った。


「こんばんは、桐野良彦きりのよしひこ君。私達は、あなた方桐野家を骨の髄まで強請りに来た者です」


 そう言って、ていねいすぎるくらいにおじぎをした杠葉さんは何だかとてもきれいに見えた。

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