第53話
午後八時過ぎ。とある学習塾の入ったビルの入り口を見張る事のできる路肩にワゴン車を停めたタツさんは、運転席からその大きな体をぐるりと反転させて後部座席に座っている杠葉さんに声をかけた。
「あの、杠葉さん。サングラス貸してもらっていいですか?」
「あら、どうして? あなたの目力にはいつも期待してるのに」
「いや、さすがに息子と同じ学校の子供相手ですから、万一にも顔を覚えられると……」
「ああ、そうだったわね。気が付かなくてごめんなさい、そういえば息子さんは?」
「母親に預けてます。急に派遣の仕事が入ったからと嘘ついて……」
「それもごめんなさいね、無理強いさせて」
「いえ、いいんです。不甲斐ないかもしれないですが、こんな時間に仕事するのも、ほんのたまにですし」
申し訳なさそうにそう言うと、タツさんは杠葉さんから差し出された分厚いサングラスを素早くかける。さっき給湯室で全身黒一色のスーツに着替えてたけど、サングラスまでかけてしまったら、もう堅気には見えない。本当、相変わらずよく化ける人だ。
俺はタツさんの息子の、健太君を思い出した。話したのはほんの二言三言だったし、三分と一緒にいなかった。でも、サッカーボールを取ってもらった礼をきちんと言って、頭まで下げられる子なんだ。不甲斐ないなんて言ってるけど、タツさんの躾や教育がきちんと行き届いてるいい子じゃんかと心底思った。
「なあ、聡。どこかこの辺でケーキ屋とか知らねえかな?」
ふいにタツさんが助手席にいる俺に顔を向けてきたから、必要以上に驚いてしまった俺は大げさなくらいに両肩を震わせる。「えっ!?」と反射的に振り返ってみたら、タツさんの手にはLINEのメッセージ画面が映し出されたスマホが握られていた。
「健太が留守番のごほうびにチョコケーキ買ってこいってさ」
「ぷっ……」
サングラスで目元は隠れていたが、困ったように口元を歪ませているタツさんがおかしくて、つい吹き出してしまった。これから人を強請ろうっていう男が、息子のおねだりに悩むって……。心の中がちょっと晴れたような気になって、俺は笑いながら答えた。
「ケーキ屋は知らないですけど、俺んちの近くにスイーツをいつもたくさん置いてあるコンビニがありますよ」
「マジか!? じゃあ、この仕事が終わったら連れてって……」
「タツさん、聡くん」
俺達二人の後ろから、ピシッと空気が変わった音が聞こえたような気がした。それくらい、杠葉さんが俺達を呼ぶ声は鋭かったっていうか、いつもとは何もかもが違ってた。
「ターゲットが出てきたわよ。予定通り、家から100メートル手前まで尾行して。今日子ちゃん、さっきもらった例の物、微調整はできてる?」
『問題ありません。開始と同時にスイッチを入れて下されば、後は私の方でコントロールできますので』
杠葉さんの手にあるトランシーバーらしきものから、今日子ちゃんの声がわずかなノイズ音と共に聞こえてくる。それと同時にタツさんがハンドルをぐっと握りしめた。
「さあ、それでは皆さん。ユズリハ探偵事務所の裏オプションを始めましょう」
「了解!」
『了解しました』
杠葉さんの声にタツさんとトランシーバー越しの今日子ちゃんが応える。俺は助手席で歯を食いしばってしまい、結局何も言えなかった。
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