第41話

本当に何の予定もないのであれば、園田幸人はさほど遠くない最寄り駅に乗って四つ駅先の自宅に戻ればいいはずだった。それなのに彼は駅に入らないばかりか、一駅分もの距離をひたすら歩いて繁華街の方向へと向かっている。


 一度だけ横断歩道の信号に引っかかってぴたりと足を止めた時、彼の懐のあたりからスマホの着信音が聞こえてきた。そして、その電話に出た彼は二メートルほど後方に離れていた俺と杠葉さんの耳に届くほどはっきりした声で、こう言っていた。


「……ああ、芳江。うん、今日は課長と一緒に取引先と会食する事になったんだ。ああ、分かってる。できるだけ早く帰るよ」


 おい、ちょっと。会社単位の飲み会や接待の予定はなかったはずじゃないのか?


 思わずじろりと横目で杠葉さんの方を見てしまったが、彼女はそんな俺を全く気にもせず、ひたすら園田幸人の背中を見つめていた。


「奥様に対して嘘の電話……、可能性が5%ほど増してしまいましたね」

「可能性って、やっぱり浮気のですか?」

「ええ。まあ、本音を言えばそちらの方が楽ですし、一定以上の収入は得られますから」

「え……」

「強請り屋がこんな事を言うのも何ですが、本来なら強請りなんてしないに越した事はないですもの」


 ふふっと短い笑い声を立ててからそう言った杠葉さんの言葉を待っていたかのようなタイミングで、横断歩道の信号が青へと切り替わる。「それじゃあ、急ぐから」と慌てるように通話を切った園田幸人が早足で道を渡り始めたが、杠葉さんは何の焦りも見せる事なく、さらに俺の右腕に自分の両腕を絡ませた。


「ゆ、杠葉さん。急がないと見失って」

「大丈夫です、聡くん」


 園田幸人が次の角を右に曲がっていく。その背中が見えなくなった事で余計に焦ってしまった俺は、自分の右腕ごと杠葉さんを引っ張る。さっきとは真逆の状況だ。それなのに、杠葉さんの細い両足は一歩も動く事はなかった。


 俺が非力って訳でも、杠葉さんが特別力の強い女性っていう訳でもないと思う。ただ、びくとも動かない杠葉さんの中には違う強さがあるのを感じた。確信という名の、揺るぎない力が。


「落ち着いて、本当に大丈夫だから」


 杠葉さんが言った。


「あの角から先は袋小路状になっていて、いくつかのお店が連ねっている場所です。しかもどの店もガラス張りだから、外から店内が丸見え。慌てる必要はありません」

「え……な、何でそんな事知って」

「事務所から半径十キロ圏内の地理や地域の風景は全て記憶してます。これも探偵には必要なスキルですよ」


 聡くんも、最低五キロ圏内は頭に入れておいて下さいね? そう言って、杠葉さんは再び足を動かし始め、また俺はたたらを踏む羽目になった。

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