第32話

「相手なら、分かっています」


 一度、ぐっと唇を強く噛みしめてから園田芳江は言った。その相手って奴の顔を思い浮かべているんだろう、何ていうかものすごい怒りのオーラって奴を感じる。本当なら探偵の手なんか借りず、自分で旦那や相手を問い詰めて罵ってやりたいに違いない。まあ、そんな修羅場にさせない為の第三者として、探偵って仕事が成り立つんだろうな。強請り屋なんて裏オプションがなければだけど。


「そうですか、それで?」


 タツさんが促すと共に、メモ帳に素早くペンを走らせる。それに合わせるように、園田芳江も少し早口で言った。


「うちの一人息子の、担任をしている女教師です。名前は新見綾香にいみあやかで、確か二十六歳だったと思います。期間は半年ほど前に行われた父親参観日の直後からで、そのあたりから主人はちょくちょく一人で出かける事が多くなり、その女教師と二人でいるところを見たという話を聞きました」


 ……ん? 何だそれ? 自分でやればいいじゃんとか思ってたけど、もうとっくに行動済みだったのか。女って怖いな、こういう時の行動力とかって男なんかよりよっぽど早くて思い切りが強いんだから。


「そうですか。そのお話は、どなたから?」

「近所に住んでるママ友の方から。もう何度も見かけたって」

「園田さん自身は、二人の様子を見た事ありますか?」

「いいえ、まだ。一度主人の後をつけた事もありますが、途中で見失ってしまって」

「それで我々に、不倫の確たる証拠を突き止めてほしいとの事ですね?」


 ええ、と園田芳江が頷く。自分を守るように組んでいる両腕が、カタカタと細かく震えていた。そんな依頼主を見ていたら、俺はすっかりメモを取る事を忘れてしまってたけど、あらかた何かしらを書き込んだらしいタツさんがメモ帳をぱたんと閉じて「分かりました!」と元気よく言った。


「それでは三日ほどお時間を戴きます。調査結果と請求書は同時に出させていただきますけど、よろしいですか?」

「ええ、大丈夫です」

「必ず結果を出しますので、今しばらくお待ち下さい」

「よろしくお願いします」


 淡々とそう言って、園田芳江が頭を下げる。最後まで俺達を家に上げる事はなかった。






 園田家を出てしばらくした後、書類を見ながら歩いていたタツさんがいきなりぴたりと立ち止まった。そのせいで後ろを歩いていた俺はタツさんの分厚い背中にもろに顔をぶつけてしまった訳だけど、タツさんは全く微動だにしなかった。


「やば……、嘘だろ?」


 何か見落としでもあったのか、タツさんの焦った声が聞こえる。ニッカポッカの油臭さに鼻の下を拭いながら、俺が「どうしたんですか?」と尋ねてみれば。


「……聡。悪いんだけど、ここの張り込みだけ、ちょっと代わってくれねえかな?」


 そんな情けない声を出しながら、タツさんがそうっと振り返ってきた。眉まで下げて、今にも泣きだしそうな子供っぽい顔をしていた。

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