第26話
翌日、午前八時四十五分。ユズリハ探偵事務所の勤務時間は午前九時からだと聞かされていたから、ほんのちょっと早めに出社したつもりだったのに、ドアの鍵はもうとっくに開いていて昨日手渡された合鍵を使う必要がなかった。
そのままドアを開けてみれば、今日子ちゃんが黙々と事務所の掃除をしているところだった。それぞれのデスクの上を拭き終えているのか、今は簡素な造りのほうきを持って床掃除をしている。タイムカードを切りながら「お、おはよう」と挨拶すると、今日子ちゃんはちらりと俺の方を一瞥した後、また床の方に視線を落としながら「おはようございます」と静かな声で返した。
「あ、朝から掃除大変だね。手伝おうか?」
「いえ、結構です」
静かなのに、すっぱりと切れ味のいい拒否も返ってきた。
「掃除は常に内勤している私の担当ですので、どうぞお気遣いなく」
「え、でも……慣れるまでは俺も内勤、だろ?」
「確かにそうですが、通常の仕事が入った場合はその限りではありませんよ? 昨日、聡さんが帰られた後、二件ほど依頼が来ました」
「依頼?」
「浮気調査が一件に、迷子になった子猫の捜索が一件です。後者の方は、今日の午前十時に依頼主が改めて来社予定です」
さっさと足元を掃き終え、ちり取りの中に砂粒やゴミを集めていく今日子ちゃん。十九歳って言ってたよな。確かにまだ顔に幼さが残っているし、髪型だって今時のファッションを抑えてるって感じなんだけど、何かこう……表情がそれらしくないっていうか。どうしてそんなに眉一つ動かさずに淡々とした物言いができるんだっていうか……。
何だか、業務内容しか口にしない今日子ちゃんと二人きりの状況が少し居心地が悪く、俺はタツさんのデスクをちらちらと見ながら言った。
「そ、そういえばタツさんは? もうすぐ始業時間だってのに、もしかして遅刻とか?」
「いいえ、違います」
俺がやっとの思いで口にした話題を、今日子ちゃんはいとも簡単に切って捨てた。「何で?」と尋ねても、それ以上は何も答えてくれず、ほうきとちり取りを持って給湯室の方へと行ってしまった。
何だよ、俺はロボットと話をしてるんじゃねえんだぞ。
面白くなくて、俺はやや乱暴に自分のデスクに座る。そして、前任者が置いていったとか言ってた物を確認しようと、デスクの引き出しに手をかけようとしたら。
「聡さん。コーヒーと紅茶、どちらがいいですか?」
……なんて声が、給湯室から聞こえてきた。
「え……コ、コーヒーで」
「お砂糖とミルクはどうされますか?」
「ブ、ブラックでいいよ?」
「分かりました。インスタントですけど、味は保証します」
そんな声と一緒に、こぽこぽとお湯が注がれる音がかすかに聞こえた。そして、次には始業前に飲むにはいい感じのコーヒーのいい香りが事務所のフロアを漂っていく。
「……おはようございます。あら、今日もいい匂いね」
うっとりとコーヒーの匂いに酔いしれていたら、ドアの開く音に気付くのが遅れて、思わずびくっと肩が震えてしまった。慌てて振り返ってみれば、そこにいたのは杠葉さんで。
「相変わらず、今日子ちゃんはコーヒー淹れるの上手ね。今日は私も飲みたい気分になっちゃったわ、今日子ちゃんお願いできる?」
「はい、杠葉さんはお砂糖二個でしたよね?」
「ええ」
給湯室に向かって答えると、杠葉さんはモデルみたいな足取りで自分のデスクに向かっていき、また優雅にリクライニングチェアーに座る。そして今度は俺の方に視線を向けると、「今日も一日頑張りましょうね」と言ってきた。
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