第9話

数日後。俺はずいぶんと浮かれモードでスマホのLINE画面をいじっていた。メッセージを送る相手は、綾ヶ瀬だ。


『朗報』

『俺、探偵社への就職が決まった』

『しかもそこの社長、超美人!』

『お前もあきらめずに頑張れ』


 いつもだったら、ちょっと上から目線過ぎるだろとか、それなりに綾ヶ瀬を気遣えるような事を考えてやれるんだろうけど、ようやく終わった地獄の終焉に浮かれるなという方が無理な注文だった。まあ、それ以前の純粋な気持ちとして、俺に訪れた幸運を大学で一番仲のいい友達におすそ分けしてやりたいと思っての行動な訳だし。


 きっと、実家の自室で何事か悶々と考え込んでいたんだろう。綾ヶ瀬からの返事はすぐに来た。


『おめでとう』


 絵文字もスタンプもなく、何の飾り気のない五文字だけがLINEのメッセージ画面に浮かぶ。一瞬、ひやりと背筋に冷たいもんが走った。


 やべ、怒らせたか? 確か綾ヶ瀬は実家の自営業を継ぐ継がないってもめてたんだよな。そんな時に、こんな無神経な浮かれメッセージ送ってくるんじゃねえよって、次のメッセージで言ってくるか?


 そう思っていたのに、いつまでたっても綾ヶ瀬は続きのメッセージを送ってこなかった。ただ一言、『おめでとう』だけ。


 これは本当に心から祝福してくれてるがゆえに、こんな単調なメッセージになったのか。それとも、無神経な俺に対するムカつきを少しでも払拭したいがゆえのものなのか。ああもう、これだから文字だけのメッセージは意図が汲み取りにくいってんだよ。直接電話して聞いてみようか。


 そんな事を思い付いた時、ふと彼女――杠葉さんから言われた事を思い出した。







「……では、本日は誠にありがとうございました。正式な採用通知は後日、追ってご自宅に郵送させていただきます」

「は、はい。今後ともよろしくお願い致します、社長」


 ひと通りの話を聞き終え、すっかりその気になった俺がユズリハ探偵事務所への就職を決意、ならびに採用が決まった時だった。緊張が解けて、宙の中で溶けてしまいそうなほど長いため息をついた俺に、彼女が言った。


「杠葉、でよろしいですよ」

「……え?」

「先ほどもご説明いたしましたが、当社は少数精鋭でお仕事をさせていただいていて、そのせいか皆、まるで家族のように仲がいいんですよ。なので、社員さん全員を下の名前で呼んであげて下さい。もちろん、私も例外ではありません」


 そう言って、軽く小首をかしげる杠葉さん。当然の事ながら、俺の心拍数は一気に跳ね上がった。


「そ、そんなっ。社長をファーストネームで呼ぶとかあり得ないっていうか……!」

「私は気にしませんし、そうして下されば楽しくお仕事ができると思いますが」

「でも……」

「聡くん」


 優しいそよ風のような声が、俺の動揺をぴたりと抑え込む。まだ何か言おうとしてた俺の口が、思わず次の言葉を忘れてしまうほどに――。


「相手の心を先読みし、抱いている感情を理解し、一歩も二歩も先の手を組み立てて行動する。それが私達の仕事なんです。その為の必修科目だと思って、どうか受け入れて下さい」


 そう言って、杠葉さんはにこりと笑った。






 俺は、返事のないスマホを脇に放り投げて、そのままベッドの上に寝転んだ。


 きっと今、綾ヶ瀬はいろいろ大変な思いをしてるに違いない。連絡するのはもうちょっと後でもいいか。


 どうか綾ヶ瀬にも希望溢れる未来が来ますようにと、ずいぶん子供っぽい願いを祈った。

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