第8話
素質がある。そんな言葉、ここ百回の就活の間に何度聞かされた事か。そのたびに何度浮かれて、今度こそはって期待して、何度絶望させられてきた事か。
口で言うだけならタダだけど、あいにく今の俺の心には響かない。それくらい、ありがたみをなくしてしまってんだよ。
構わず、そのまま立ち上がる俺。後は適当に挨拶をして背中を向ければよかった。それができなかったのは、杠葉さんの両手が俺の右手にそっと触れてきたからだった。
普通なら過剰なボディタッチだし、俺の受け取り方次第ではセクハラにだって値する。そう思わなかったのは、次に聞こえてきた彼女の言葉があまりにも真剣そのものだったからだ。
「大きい手、温かくてとても素晴らしいです……」
「え?」
「当社の仕事に、大きい手は欠かせません。人間味溢れるこの温かい手は依頼主を安心させ、依頼された業務を滞りなく完遂させる事ができます。あなたには、その才能がある……」
杠葉さんの手は、テニスラケットばかりを握り込んでいたゴツゴツの分厚い俺のものとは違って、とても滑らかで指先まで細くて白かった。手入れを欠かしていないのだろう爪先も手タレみたいにきれいで、シンプルなピンク色のマニキュアがキラキラと輝いていた。
こんなにきれいな手をしている美人なのに、どうして探偵とかやってるんだろう。浮気とか素行調査なんて、きっと十中八九、人間の嫌な面しか見えてこないだろうに。
相反する二つの要素を持つ杠葉さんから、何故か急に目が離せなくなった。立ち去ろうとしていた体もぴたりと動かなくなったし、むしろ「もっと話が聞きたい」と思い始めている。ただ、テニス漬けだった手を褒められただけなのに。
「ちょっと、いいですか……」
暗に手を離してもらえるように訴えると、すぐに杠葉さんはぱっと離してくれた。それが惜しいような、そうじゃない別の何かを思っての事なのか、俺の口から短いため息が出る。すると、今度は杠葉さんが少し戸惑ったように身を揺らした。
「あの……?」
「これ、お願いします」
俺は持ってきていた鞄の中から、昨夜願いを込めて書き上げた履歴書を取り出して、そのまま机の上にずいっと差し出した。
「岸間聡と申します」
そう名乗ると、杠葉さんはぱあっと表情を明るくさせ、「では、当社について一からご説明致しますね」と切り出した。
俺がユズリハ探偵事務所の内定を取ったのは、それから半日後の事だった。
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