第111話
「美穂っ!」
約束していた時間より、十分ほど遅れてしまっていた。最寄り駅の改札口を出て、すぐ目の前にある防波堤を見てみれば、美穂が待ちくたびれたとばかりに腕組みをしている。僕は彼女の元に走り寄ると、素早く両手を合わせて軽く頭を下げた。
「ごめん、遅れた」
「自分からこの日、この時間にしようって言ったんでしょ⁉ 日焼けして痕が残ったら、どうしてくれるのよ?」
「それは大丈夫だろ、まだ若いんだから」
「中学生の時とは違うの。孝之は先生だからいいかもしれないけど、こっちは客商売なんだからね」
そう言って、美穂は左手を伸ばして僕の額を小突く。甘くて優しいバニラエッセンスのほのかな香りが鼻を掠める中、その左手の薬指には銀色の指輪がはめられていた。
「ご主人と始めたケーキ屋は順調みたいだな?」
「おかげ様で」
美穂がぺこりと頭を下げる。
「緒形さんに毎度毎度ごひいきにしてもらっているおかげです。まあ、由佳子さんのクッキーにはまだまだ遠く及びませんが?」
「そりゃそうだ」
美穂が今のご主人と出会ったのは、僕より先に大学を卒業してから二年後の事だった。OLとして働き始めた美穂の行きつけの店でパティシエ修行をしていたご主人に一目惚れされたという。だからこそ、彼との結婚を意識し始めた美穂は、自分の過去や体の事を言い出せずにひどく悩んでいた。
それは全て自分が悪いのだから、俺の口から説明させてほしい。僕は美穂にそう切り出し、ご主人と三人で話をする場を設けてもらった。僕は一切包み隠さず、僕と美穂の事、そして兄貴と由佳子さんとの十年間を話し、彼の反応を待った。一発どころか、何百発でも殴られる覚悟はできていた。
だが、話を全て聞き終えた後、彼はふうっと大きな息を一つ吐いてから、こう言ってくれた。
『……同じ男として、過去のあなたの行いを心から軽蔑します。しかし今、私の目の前にいるあなたは美穂の大事な親友です。だったら、私とも友人になってもらいたい。結婚式には、ぜひ出席して下さい』
そう言って、握手を求められた彼の手は分厚いものだった。聞けば兄貴と同い年で、高校生までバスケをしていたのだという。もしかしたら、どこかで兄貴と試合をしていたかもしれない。そう思ったら、みっともなく二人の目の前で涙を流してしまった。
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