第107話






 一年後。再び大学四回生をやり直した僕は、無事に教育実習を終え、その後も何とか教員免許を取得した。実習で初めて教壇に立った日、生徒達の視線が一気にこちらへと集中した時は本当に緊張した。余裕がなかった数年前の兄貴のあの様も、今ではよく分かるというものだ。


 後に残すは、卒論の課題決めと教員採用試験の二つだけだ。これは先輩である兄貴に聞くべきだろうと考えた僕は、大学の講義が終わるとすぐに療養施設に向かった。


「兄貴、入るよ」


 ノックをしてから、僕は病室に入る。相変わらず、甲高い機械音が部屋中に響いていた。


「兄貴、聞いてくれよ」


 僕は備え付けのパイプ椅子にどかっと座りながら、兄貴に話しかけた。


「これから卒論とか採用試験が待ってるんだけど、卒論の課題にいまいち自信がないんだよ」


 肩にかけてあったカバンから何冊か資料の本を取り出し、ほらと兄貴に掲げて見せる。相変わらず、兄貴は何も言ってくれなかった。


 この一年、兄貴は何度も呼吸不全の発作を起こしては生死の境をさまよった。少し前から見舞いに来るようになっていた美穂も、兄貴の手を取りながら「康介さん、頑張って下さい! お願い由佳子さん、康介さんを守って‼」と、両親と一緒に祈ってくれた。そんな彼女と両親の祈りに応えるように、佐伯先生は何度も懸命に治療に当たってくれたのだが。


『ここ数日で、衰弱がかなりひどくなっています。次に大きな呼吸不全の発作が起きてしまったら、おそらくは、もう……』


 両目にうっすらと涙の幕を張りながら悔しそうに、そして悲しそうに宣告してくれた佐伯先生に、僕達はたくさんの感謝の言葉を口にした。兄貴だって、きっと何度もお礼を言うだろうと思ったから。


「……ほら。これ全部、前に兄貴がよく使ってた奴だろ? この中でさ、どれが一番参考になったか教えてくれないかな」

「……」

「あとさ、ちょっと早いかもしれないけど、教師の心得って奴も聞かせてくれよ。俺は兄貴や由佳子さん以上の教師になるんだから、最低でも二人のレベルには達しておかないと話にならないし?」

「……」

「あっ、それと、こっちも見てほしいんだけどさ……」

「……」


 機械に繋がれて意識もなく、声をあげるどころか身動きすら取れない兄貴にいらだった僕は、椅子から立ち上がると、そのままベッドの上の兄貴の顔を覗き込んだ。大きくて太いパイプを口にくわえさせられ、鼻にも細長いチューブを差し込まれている。全身はすっかり痩せ細り、骨と皮だけになった腕などはまるで枯れ木の枝のようだ。

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