第102話
旅行当日。明け方から少し強めの雨が降ってくる中、僕は兄貴と由佳子さんの二人をバスのターミナルまで送った。兄貴は時間ギリギリまで遠慮し続けていたが、由佳子さんの「せっかく用意してもらったんだから、行ってきましょう」という言葉に折れ、先日彼女が買ってきた新しい服に身を包んだ。兄貴によく似合う、真っ白なポロシャツだった。
日帰り旅行の行き先は、隣の県下にある牧場と、つい数ヵ月前に建設されて名が知られ始めている西洋風古城での見学がメインとなっていた。高速道路を約二時間ほど渡り、まずは県境に近い牧場で乳絞りなどの体験と昼食を済ませた後、古城の見学に向かうというプランになっている。
「孝之、本当にいいのか?」
バスの出発十五分前。大勢の客で賑わいだした待合室の中で、兄貴がしつこく言ってきた。
「今なら、まだキャンセルきくんだろ? 俺、やっぱり今回は」
「いい加減、腹を決めろって」
僕は兄貴の正面に立って言った。待合室のソファに座ったままの兄貴が、僕をゆっくりと見上げる。
「そりゃあ大急ぎで取ったチケットだけどさ、しっかり楽しんでこいよ。久しぶりだろ、こんなデートは」
「……むっ、お前なぁ!」
図星を突かれて、兄貴が顔を赤らめる。兄貴の横に座る由佳子さんが、くすくすと短く笑った。
「確かに、ずいぶん久しぶりよね。私達、あんまりデートしなかったから」
「お前までそう言うか、由佳子ぉ……」
「孝之君がせっかくお膳立てしてくれたのよ、今日だけは素直に甘えましょう」
由佳子さんがそう言うと、兄貴は仕方ないというふうにこくりと頷く。それと同時に、兄貴達が乗るバスの添乗員がメガホン越しに客を呼び集める声が聞こえてきた。
『え~、出発十分前です。皆さん、三番ターミナルに集合して下さ~い!』
「ほら。デートしてきなよ、兄貴♪」
僕は兄貴の足元に置かれていたデイバッグを持ち上げ、そのまま手渡す。僕がからかっている事に気付くと、兄貴は僕を上目遣いに見ながら「覚えてろよ、お前」とつぶやいた。
三番ターミナルでは、観光用の大型バスがエンジン音を唸らせながら停止していた。その周りに集まっている客の数は、バスの座席の三分の二といったところだろうか。結構、お仲間がいるんだなと思った。
「賑やかな旅行になりそうだね」
僕がそう言うと、由佳子さんも「そうね」と頷いた。
「孝之君、お礼にお土産買ってくるからね」
「楽しみにしてるよ」
兄貴と由佳子さんは僕の用意したチケットを添乗員に渡し、素早くバスに乗り込んだ。二人の座席はやや中央の窓際となっていたので、バスの中の短い通路を渡って席を探している様子が分厚いガラス越しによく見えた。
僕はガラスの向こうの二人に大きく手を振ると、すぐに気付いた由佳子さんが手を振り返し、兄貴にもそうするようにと促す。兄貴は僕をちらりと見て肩を竦めると、仕方なさそうに指先だけを小さく動かした。
乗客全員を乗せた大型バスは、クラクションを一つ鳴らしてから、降りしきる雨の中をゆっくりと出発した。遠くなっていくバスの中で、由佳子さんはまだ手を振り続けていたし、兄貴もずっと僕の方を見ていた。僕はバスの背中が見えなくなるまで、その場でずっと手を振り続けた。
事故が起きたのは、それからわずか一時間後の事だった――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます