第100話






 佐伯先生の懸命な治療で何とか小康状態にまで戻る事が出来た兄貴だったが、弱々しい呼吸を繰り返している様を見るのは苦しかった。一度帰宅した方がいいと促してくれた佐伯先生の言葉に従って、僕は家路に着く事にした。


 できるだけ、何も考えないように努めた。何も思い出さずにすむよう、周囲の何でもない事ばかりに目を向ける。道の真ん中に落ちている小石を蹴り飛ばしたり、電線に止まっているスズメの数を何度も数えてみたり……。


 そんな事をしていたら、いつの間にかあの大通りに差しかかっていた。そしてそこの横断歩道が目に映った時、僕の脳みそはフル稼働する。横断歩道の端に花束やお菓子が供えられていたからだ。


 しかし、僕の目をより引いたのは、それらの前でていねいに両手を揃え、目を閉じて祈っている一人の人間の姿だった。


「美穂……!」


 僕は思わずその名を呼ぶ。はっと顔を上げて僕に気付いた美穂は、その場から去ろうと慌てて立ち上がった。


「待って!」


 僕は小走りで美穂に近付き、その手を取る。美穂は振り返らなかった。


「お参りしてくれてたんだな」


 僕が横断歩道の花束やお菓子を見ながら言うと、美穂は小さく頷いた。


「仕方ないでしょ、あの子にはお墓がないもの……」

「俺には真似できないよ。未だに身が竦むんだ、ここを通る時は必ず」

「康介さんの事件のおかげで、皆忘れてくれたんだから、別にいいんじゃない?」

「そういう訳にはいかないだろ」


 僕は、美穂へと視線を戻した。彼女はまだ僕の顔を見ようとしない。


「お前も忘れられない事なのに、俺ができる訳ない」

「相変わらずの偽善者ぶりね、あきれた」


 美穂がふんと鼻を鳴らす。


「そういう中途半端な態度や優しさが、一番相手を傷付けるのよ。だからあんたは、由佳子さんを失くしたの!」


 美穂が、やっと僕を振り返る。怒りと悲しみが彼女の顔にしっかりと浮かび上がっていた。


「いいわね、由佳子さんは。永遠にあんたの中で美しい思い出となって生き続けるんだから。聞いたわよ、大学辞めるんだってね。だったら、これから先ずっと由佳子さんとの思い出に浸って生きていけばいいわ」


 美穂が僕の手を振り払い、立ち去ろうと歩き出す。これ以上、美穂を一人にしたくないと思った僕は、その行き先に回り込んで彼女の両肩を掴んだ。


「俺の事、一生許してくれなくていい。でも兄貴と由佳子さんだけは、美穂にとっても大事な思い出にしてやってくれないか? 頼む……!」

「は? 何言ってんのよ⁉」


 当然、美穂は嫌悪感でいっぱいの顔で僕を見た。自分勝手な事を頼んでいるのは分かっている。でも、そうする事が全てに対する僕の償いの始まりだと、やっと分かったのだ。


 少しして僕の言葉に疑問を持った美穂が、怪訝そうに口を開いた。


「『康介さんと由佳子さんを大事な思い出』にって、それどういう意味?」

「……」

「康介さん、治療の途中でしょ。康介さんの意識が戻ったら、二人でいくらでも思い出を語り合えるじゃない。何で康介さんじゃなくて、私なのよ?」

「……」

「答えなさいよ、孝之!」


 黙り込む僕を、美穂は決して許さなかった。僕が答えるまで何度も叫び続けた美穂の頬には、きれいな涙が幾筋も伝っていた。

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