第92話
結局、兄貴は弁護士の言う事を聞かず、裁判では自分の不利になる証言ばかりを口にした。その結果、初犯であるにもかかわらず、傷害罪が確定し、執行猶予のない懲役三年という厳しい判決が下された。控訴すらしなかった兄貴は、これから県外の刑務所へと送致される事になる。
二人が住んでいたマンションの部屋は兄貴の希望通り引き払う事となり、判決が下って二日後には部屋の中の全ての荷物が追い払われた。業者がトラックに荷物を全て積み込み、先に出発していく中、残った僕と由佳子さんはがらんとなった部屋を隅から隅まで見渡した。ていねいに掃除もやったので、まるで新築のようにぴかぴかに輝いている。
「この部屋、こんなに広かったかしらね」
寂しそうに言う彼女の足元にあるのは、大きなスーツケース。「本当に、実家には戻らないつもりなの?」と僕が尋ねると、由佳子さんは大きく頷いた。
「帰りたくても、もう勘当されちゃったもの。前科者の嫁になりたいなんて言う奴は、もう娘じゃないってね」
先日、由佳子さんは兄貴がどこの刑務所に行く事になったのか、僕の両親にしつこいほど問い詰めた。両親は由佳子さんの将来を思って、始めは頑なに口を閉ざしていたものの、何時間にも渡って粘り、最後には土下座までした彼女の気持ちにとうとう根負けした。そして学校に退職届を提出した由佳子さんは、その身一つで兄貴の側に行く決意を固めたという。
「大丈夫?」
マンションを出て駅に向かう途中、僕は未練がましく口を開いた。
「女の人が一人で、知らない土地に行くなんて」
「苦労するだろうって事は、覚悟の上だから」
「兄貴、きっと怒るよ?」
「それも覚悟できてる。でも、私はコウちゃんを信じているから」
駅の前まで辿り着くと、由佳子さんは僕が持っていたスーツケースを受け取り、「ここでいいわ」と言った。
「これ以上一緒にいると、泣きたくなっちゃうから」
「うん」
「元気でね」
由佳子さんが、すっかりきれいになった片手を差し出してくる。僕はズボンで手のひらの汗を拭ってから、彼女の手を握った。相変わらず、優しくて温かい感触がそこにあった。
「由佳子さんも元気で」
「ええ」
僕の手から由佳子さんの手がするりと抜けた。そのまま背中を向けて、スーツケースと共に駅の中へ向かっていく。だんだん遠くなっていく彼女の背中が何だかとても愛しくて、気付けば僕は叫んでいた。
「由佳子さん! 俺、絶対に教師になる。兄貴の代わりに!」
由佳子さんが肩越しにちらりと僕を見る。僕は叫び続けた。
「兄貴みたいに、立派な教師になってみせる! だから由佳子さんも、新しい場所で頑張ってくれよ!」
「孝之君……」
由佳子さんの僕を呼ぶ声が、風に乗って微かに聞こえてくる。彼女の瞳から涙が一筋流れた。
「待ってる」
由佳子さんが答えてくれた。
「コウちゃんと一緒に待ってるわ。きっと、また会おうね」
由佳子さんは何度も振り返りながら、僕に大きく手を振った。改札口をくぐり、ホームの奥にその姿が隠れてしまうまで、ずっと……。
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