第91話
「今は、美穂に悪い事をしたって思ってる。でも、あの時はどうしても抑えられなくて、ひどい事をいっぱい言った。それにショックを受けて、美穂はあんな目に……」
「孝之君……?」
「本当は俺、由佳子さんとこうなりたかったんだ……!」
血が滲んでしまっている今の由佳子さんの両手に力が入らないのをいい事に、僕は強く抱きしめ続ける。それなのに、彼女の体はほんの一瞬たりとも緊張で強張ったりなんかしなかった。まるで、子供の些細なイタズラを受け止めているかのように――。
二人が呼吸する音と、心臓が動く音。それだけがリアルに耳へと届く。薄暗い部屋の中、二つの音が静かに重なっていた。
「どうして、抵抗しないの……?」
「どうして、抵抗しなきゃいけないの?」
僕が尋ねると、由佳子さんは静かな声で聞き返す。その声にそうっと由佳子さんの顔を見てみれば、彼女もまっすぐに僕を見つめていた。
「分かってんのかよ……。俺は、美穂にひどい事をした。その上、兄貴の恋人である由佳子さんにこんな真似してるのに」
「もう大丈夫だって、信じてるから」
「え……」
「今、私の目の前にいる孝之君は、もう誰も傷付けるような事はしない。そうでしょ?」
由佳子さんのその言葉に、僕の両手の力が抜ける。そのままうなだれていると、由佳子さんの血が滲んでいる右手が伸びてきて、僕の頬を優しく撫でてきた。
「泣かないで、孝之君」
彼女の指が、何故か濡れていた。彼女の指を濡らしている何かは止まる事なく、いくつもの道筋を作っていく。それが自分の涙だと気が付くと、僕は由佳子さんから離れ、壁まで後ずさった。背中に壁がぶつかり、鈍い音と痛みがじわりと広がる。
もう、我慢ができなかった。僕は子供のように声をあげて泣きだした。
腕やこぶしで流れ続ける涙や鼻水を乱暴に拭っては、また声をあげる。そんなみっともない真似を何度か繰り返していたら、やがて由佳子さんがすぐ目の前まで近付く気配を感じた。
「……覚えてる? 初めて会った時も、孝之君泣いていたよね。あの時はあんなに小さかったのに」
ああ、確かにそうだった。あの時から、由佳子さんは何ひとつ変わっていない。僕があまりにも変わりすぎてしまった。それなのに、由佳子さんは「ありがとう」なんて言ってきた。
「ありがとう、孝之君。本当にありがとう」
「……」
「でも、ごめんね。私は、コウちゃんしか愛せない」
「知ってる……」
「孝之君は、これからも私の大事なかわいい弟だから」
「……残酷だなあ、由佳子さんは」
僕は嗚咽交じりに、小さく言った。
「残酷なくらい、優しいんだから……」
「本当にごめんなさい、孝之君」
由佳子さんも、震える声でそう言った。
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