第90話
大半の破片を片付け終わった後で、僕はもう一度言った。
「由佳子さん、家に帰りなよ。これからこの部屋の管理は俺達がやるし、由佳子さんの荷物も送るから」
「どういう事?」
由佳子さんが、僕の顔をゆっくりと見た。
「まさか、この部屋を引き払うつもり?」
「兄貴がそうしろって言ってた。あと、伝言も頼まれてる。『幸せになれよ』だってさ」
兄貴の伝言に添えられていた覚悟まで口に出す事ができず、僕は由佳子さんから目を逸らす。だが、誰よりも兄貴を想い、心配し続けている彼女にそんな真似は無意味だった。
「それって、別れようって事……?」
由佳子さんが言った。
「人に大怪我させたから? 仕事もなくなったから? だから、別れようって……」
「たぶん」
「嫌よ、そんなの!」
小さく叫ぶと、由佳子さんは両手のこぶしを床に強く叩き付け、言葉にならない声を発した。まだガラスの細かい破片が残っていたらしく、それらは彼女の両手に次々と刺さり、血が滲み出してくる。僕は慌てて由佳子さんの細い両手首を掴んだ。
「この部屋でなくても大丈夫だよ。弁護士さんは優秀だし、きっとそう何年もかからない。俺も由佳子さんと一緒に兄貴を待つから」
「……嫌、この部屋じゃなきゃダメなのよ!」
由佳子さんの両目から涙が出てくる。それは頬を伝い、あごの曲線をなぞって、次々と床に落ちていった。
「この部屋で、私達二人はずっと頑張ってきたの。たくさんの、いろんな思い出がいっぱい詰まってる。お願いだから、ここから追い出さないでぇ……!」
「落ち着いて、由佳子さん。兄貴が帰ってくるまで、俺が支えるよ。だから、今は帰ろう」
「そんなのいい、私は一人でコウちゃんを待つ。孝之君は、美穂ちゃんの側にいてあげて」
由佳子さんがそう言った瞬間、美穂の無残な姿が脳裏に蘇った。
僕に裏切られ、赤信号の道路に飛び出した美穂がやってきた車にはねられ、アスファルトに倒れ込む。そんな彼女の中から流れ落ちて消えてしまった新しい命。由佳子さんがそれを知っているのかと思ったら、めまいが起きそうだった。
「由佳子さん、知ってたの……?」
おそるおそる尋ねてみる。由佳子さんは小さく首を横に振った。
「詳しい事はほとんど知らないけど、事故に遭ってケガをしたって事だけは。だから、今は美穂ちゃんの側に」
「ダメなんだよ」
「どうして」
「俺のせいだから」
そう答えると、僕は目の前の由佳子さんの体を強く抱きしめた。
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