第89話

渡された合鍵を差し込み、ゆっくりとドアをくぐる。すると、部屋の奥から小さな物音が聞こえてきて「何だ?」と思わず声に出すと、それはすぐに大きな足音に変わって僕の元まで駆け寄ってきた。


「コウちゃん、お帰りなさい!」


 奥から飛び出してきたのは由佳子さんだった。しかし、僕の目の前にいる彼女に以前の華やかさはなかった。


 まず、あまり梳かしていないのか、美しくてしなやかだった髪が傷んでチリチリになっている。おそらく、食事や睡眠もまともに取っていないのだろう。元々が細身だった由佳子さんの体はさらに痩せ細り、顔色も悪いばかりか、唇まで荒れてかさかさだ。それでも、今の彼女にできる精いっぱいの笑顔を僕に向けていた。


「由佳子さん……」


 僕が名前を呼んで初めて、彼女は部屋に入ってきたのが兄貴ではないと気付いたようだった。はっとした目で僕を見つめ直し、途端に表情を曇らせる。


「……あ、孝之君」

「ごめん、兄貴じゃなくて……」


 とっさに僕は謝ったが、由佳子さんはただ静かに首を振る。僕は彼女がここにいる事が不思議で仕方なかった。


「どうしてここに?」


 由佳子さんの両親が二人の結婚に反対している以上、この部屋に戻る事を許す訳がない。案の定、予想していた答えが由佳子さんの口から返ってきた。


「……親には、黙って出てきたの」

「ここにいるのはまずいよ、ほら見て」


 僕は先ほど握り潰したビラを掲げて見せた。由佳子さんの虚ろな瞳がビラを捉える。


「知ってる……」


 由佳子さんが言った。


「ついさっきも、窓に石を投げ込まれたの。ガラスが何枚か割れちゃった」


 由佳子さんの体の向こうにある部屋の様子がちらりと見えた。


 電気が点けられていない上にカーテンも閉めたままなので、昼間であるにも関わらず部屋の中は薄暗い。その床に鈍い光を放つ無数の物体が散らばっているが、それらが窓ガラスの破片である事に間違いはなさそうだった。


「大家さんもね、迷惑だから出ていってくれって」


 由佳子さんが薄暗い部屋を肩越しに振り返りながら言う。力のない、疲れ切った声だ。僕はそんな由佳子さんの左肩に手を置いた。


「由佳子さん、今すぐ実家に帰った方がいい。ここにいたら、次はどんな目に遭うか」

「……コウちゃんが、何をしたっていうの?」

「え?」

「先に殴ってきたのは、相手の方なんでしょ。それなのに、何でコウちゃんだけが捕まらなきゃいけないの……?」

「由佳子さん」

「私、この部屋でコウちゃんが帰ってくるのを待つわ。家には二度と帰らない、そのつもりで出てきたんだから」


 由佳子さんは僕に背を向けて部屋の奥まで戻ると、散らばったガラス片を片付けだす。僕も彼女の後に続き、それを手伝った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る