第88話
「このままじゃ兄貴、由佳子さんと別れる事になるぞ⁉ 裁判が始まったら弁護士さんの言う通り、正当防衛だったって主張しろ!」
「どうして? 向こうのご両親が言っている事はごもっともだ。何も間違ってない」
「由佳子さんの気持ちはどうなるんだよ⁉ きっと泣いてるぞ? 兄貴を心配して、ずっと泣いてるに決まってる!」
「分かってる。だから、お前に頼みたい事があるんだ」
兄貴は少し身を乗り出すと、真剣な表情でこう言った。
「俺のマンションに行って、部屋を引き払っておいてくれ。それと、由佳子に『幸せになれよ』って伝えといてくれるか?」
兄貴が何を考えているのか、すぐに分かった。兄貴は二度とあの部屋に戻らないつもりだ。由佳子さんの両親が望む通り、彼女の前から消えるつもりでいる。
「そこまでしなくてもいいだろ……!」
僕も身を乗り出し、限界まで兄貴の方へと顔を近付けた。
「何でだよ。そこまで罪悪感持たなくたっていいだろ」
「相手の体やご家族の心、それに平穏な生活を傷付けてしまったのは事実だ」
「百歩譲って、法的制裁を受けるという覚悟は認めるよ。でも、何で由佳子さんと別れる必要があるんだ。俺は、そんな頼み聞けない」
「……お前は、賛成してくれると思ったんだがな」
「え?」
「邪魔な俺がいなくなれば、お前はもう……」
兄貴はここで口を閉ざしたが、僕の耳には確かに「その続き」が聞こえた。
その瞬間、怒りが頂点に達した。僕は右手のこぶしをアクリル板へと乱暴に叩き付けてから立ち上がる。簡素な造りのパイプ椅子が派手な音を立てて倒れ、見張りの警官が厳しい表情でとっさに身構えた。
「ふざけるな!」
僕は怒鳴った。
「確かに俺は兄貴の言った通り、最低な男だ。でもな、そんなバカな気遣いされるほど腐っちゃいねえよ‼」
「孝之……」
「ふざけんな、このクソ兄貴!」
僕は踵を返して、そこから出ていった。兄貴がどんな顔で、どんな気持ちで僕の背中を見送っていたかなんて分からなかった。
翌日。僕は母に頼まれて、兄貴のマンションの部屋に行った。兄貴の考えは抜きにするとしても、一度は荷物を整理しなくてはならない。後で手伝いに行くからと宥める母から合鍵を渡された僕は、自転車でマンションへと向かった。
兄貴の部屋のドアポストには何日か分の朝刊や夕刊、チラシなどが突っ込まれたままになっていたが、それ以上にドア一面に貼られている中傷のビラの方が目立った。
『暴力教師』
『出ていけ』
『恥知らず』
実に様々なフレーズが汚い文字で書き殴られている。僕はいらだちを募らせながら、それを引きちぎってはぐちゃぐちゃに握り潰した。
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