第87話
「何でだよ……」
僕は皆の前で、小さく呟いた。
「何で、こんな事になるんだよ……」
「何でお前が落ち込んでんだよ」
それを二重構造のアクリル板越しに見た兄貴が、わずかに口元を持ち上げる。僕は胸が痛くて息苦しくて、兄貴の顔を直視できないまま床に視線を落とした。
「……親父、おふくろ」
やがて、兄貴が両親を見据えながら言った。
「ちょっとの間でいいんだ。孝之と二人だけで話させてくれないか?」
「えっ……」
母が驚いて、息を飲む。父も伺いを立てるように弁護士の方を向いた。
「裁判が始まる前に、弟に言っておきたい事があるんです。先生、お願いします」
アクリル板の向こうで兄貴が深々と頭を下げる。そんな兄貴の意を汲んでくれたのか、弁護士は静かに「分かりました」とだけ言い、両親を連れて出ていってくれた。
この場に僕と兄貴、そして見張り役の警官だけが残る。何も言えずに少しの間うなだれていたら、兄貴が突然大きな声を出してきた。
「どうした孝之、元気ないぞ! ちゃんとメシ食ってるのか?」
「……」
「おい、返事しろよ」
「いったい、何をやってんだよ。兄貴……」
「何って、見ての通りだな?」
「そんな事を言いたいんじゃなくて」
僕は首を大きく振る。顔が歪みそうになるのを懸命に堪えた。
「俺のせいなんだろ……」
「うん?」
「俺とケンカなんかしたから、こんな事に」
「おいおい、ずいぶんと自惚れたもんだな」
兄貴が小さく吹き出すように笑った。右手の人差し指で、目の前のアクリル板を二度三度と叩く。
「確かにムシャクシャしてたけど、あの事件とお前との事は全く無関係だ。そこを曲げるつもりはないからな」
「でも……!」
「そんな事より、美穂ちゃんやお前は? ひどい目に遭ってないか?」
「それは、大丈夫だよ」
少しの間、近所中で僕や美穂の事が噂となっていたが、兄貴の事件が世間に広く知れ渡った事で誰も気に留めなくなった。皮肉な事に、僕達の騒ぎはより大きな事件によって守られ、隠されてしまった。
「美穂ちゃんには会ってるのか?」
自分の事より僕達の事を気にかける兄貴がとても痛々しくて、ますます息が苦しくなる。僕は小さく首を振った。
「そうか」
「俺達の事はいいよ。問題はそっちだろ、由佳子さんはどうするんだよ……」
あの日、仕事から帰ってきた由佳子さんは兄貴の突然の逮捕に動揺し、パニック状態にまで陥った。心配したご両親がマンションに駆け付け、そのまま実家に連れ帰らなければならないほど、ひどい有様だったという。
その両親が僕の家にやってきたのは、それから二日ほど経ってからの事だ。彼らの用件はただ一つ、兄貴と由佳子さんの婚約解消を求めるものだった。
今なら、まだ間に合う。どんな事情があるにせよ、おそらく前科持ちとなってしまうだろう男の元へ、たった一人のかわいい娘を嫁がせるのは――。
彼らはそう言ってから、申し訳なさそうに深く頭を下げた。そう出られてしまっては、僕も両親も何も言い返す事などできなかった。
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