第五章

第86話

兄貴が傷害の現行犯として、警察に逮捕された。


 あの日、家を出ていった兄貴は、そのまま缶ビール片手に繁華街に向かった。そこで肩がぶつかったかぶつからないかで、泥酔したサラリーマンの団体と揉めたのがきっかけだったという。


 最初に手を出したのは、そんな彼らのうちの一人だった。訳の分からない言いがかりをつけながら、顔を殴ったそうだ。いつもなら絶対にそんな真似はしないのに、冷静じゃなかったあの日の兄貴はすぐに殴り返してしまい、そのままケンカになった。


 そんな中、兄貴が放った最後の一発があまりにも強すぎた。それを喰らった相手が電柱に頭をぶつけて動かなくなる。すぐに緊急搬送されて手厚い治療を受けたものの、当たり所がひどかったせいで少なからず後遺症が残ってしまうという事態にまで陥った。


 最初に兄貴に絡んで手を出してきたくせに、『怪我をさせられた』という点を活かした相手とその家族は、警察に被害届を出した。それに加えて、兄貴が全面的に非を認めてしまった為に、起訴されるまではあっという間だった。あと何ヵ月と経たないうちに、兄貴は裁判所の被告席に立たされる……。


「情状酌量の余地は、充分にあるかと思われます」


 裁判が始まる三日前、僕達家族は弁護士と一緒に拘置所にいる兄貴と面会した。しばらくぶりに見る兄貴の顔は厳しい取り調べのせいか少し痩せ、不精ヒゲがびっしりと生えている。おまけに目も虚ろで、ここまで憔悴しきった兄貴を僕は初めて見た。


「大丈夫ですよ、緒形さん。先に手を出してきたのは向こうですし、抵抗しなければあなたの方が危なかった。今からでも自分の身を守っていた際に起こってしまった偶発的な事故という手で戦えば、さほど大きな罪にはならないはずです」


 兄貴を担当してくれる事となった若い男の弁護士が、一気にまくしたてる。だが兄貴は何も答えず、ぼうっとしたままだった。


「康介、しっかりしてちょうだい」

「そうだぞ、康介。あれは事故だ、だから堂々としていろ」

「……でも、バレたんだろ。知ってるよ、それくらい」


 兄貴が自嘲気味にぽつりと言った。


 確かにその通りだった。現職の高校教師が数人と殴り合いのケンカ、しかもそのうちの一人に大怪我を負わせたという『事件』は、地元の新聞やニュース番組はおろか、SNSでも一気に広がった。どうやらケンカの様子を動画に収めて拡散した輩がいるらしく、一日と経たずに兄貴の身元は特定され、ひどく炎上した。


『暴力教師』

『こんな奴が教師だなんて、世も末(笑)』

『人を教える立場の人間が、誰かの人生ダメにしちゃいけないでしょ?』

『教師じゃなくて、ボクサーになってればよかったのにね。人生の選択間違えて、そのまま終了~』


 SNS上では、顔も名前も分からない連中が好き勝手のたまって、兄貴を侮辱し続けている。本当なら少しくらい守ってくれてもいいはずなのに、兄貴を雇っていた高校も火の粉を振り払わんとばかりに、兄貴をすぐさま懲戒解雇処分にした。


 世間が――いや、社会というものが、兄貴から仕事も夢も奪おうとしている。僕はそれが何よりも悔しかった。

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