第83話
病院までの道のりは、とてつもなく遠く感じた。まるで砂と岩だらけの砂漠を一人でさすらっているかのようで、永遠に辿り着けないんじゃないかと思ったのに、僕の足はちゃんと病院のロビーまで辿り着いていて、いくつもあるソファの一つに座っている美穂の母親の姿を見つける事ができた。
「あ、あの……!」
母親の前に立ち、少し大きめの声で話しかける。彼女は覇気のない顔を持ち上げ、焦点の定まらない目で僕を見た。
「美穂は、五階の外科病棟にいるわ……」
小さくか細い声でそう言った母親に、僕は深く一礼してからエレベーターへと向かおうとする。その際、背中越しにまた小さな声が聞こえてきた。
「どうして、こんな事に……! こんな事なら、反対なんかするんじゃなかった。美穂ぉ……!」
もう耐えきれなくなった母親がわあっと泣き崩れた瞬間、僕は走り出していた。エレベーターは使わず、五階まで階段を一気に駆け抜け、ナースステーションにいた看護師を捕まえる。廊下の一番端にある個室だと言っていたので、またそこまで全速力で走り、目に飛び込んできたドアを思い切り乱暴に開けた。
その個室のベッドの上では、頭に包帯を巻いている美穂がいた。半分ほど開かれた大きな窓の景色に顔を向け、何事かぶつぶつと呟いている。だらりと力なく膝元に置かれた両腕には生々しく大きな擦り傷が見えていた。
「み、美穂……」
小さく声をかけたが、美穂は僕を振り返ろうとしない。僕はベッドに近寄り、傷だらけとなっている美穂の手を包むように握った。振り払う為でもなく、捕まえる為でもない。美穂に詫びる為だった。
「孝之……」
突然、ぼそりと美穂が言った。
「赤ちゃん、いなくなっちゃった……」
「美穂」
「お母さんから、話は聞いてるよね……? あの事故で、私もダメになっちゃった。もう、女じゃないの……」
美穂がこちらを振り向く。無表情で、何の色も輝きも持たない瞳から涙が流れていた。
「ねえ、何で……?」
美穂が言った。
「何で私、こんな目に遭わなきゃいけないの? 私はただ、普通に……」
「美穂!」
僕は美穂の体を抱き締める。情けなかった。僕のせいで美穂がこんなふうになってしまったのに、優しい言葉がこの口から一つも出てこない。残酷で、冷淡で、無力な自分がたまらなく悔しかった。
「離して」
美穂がわずかに身じろいだ。
「今頃、優しくしないで。どうしたのよ、早く由佳子さんの所にでも行けば?」
「どこにも行かないよ、ここにいる。美穂の側にいるよ」
「お願いだから、帰ってよ……」
美穂の両腕が、僕の肩を弱々しく押しやる。僕はそんな弱い力にも抵抗せずに離れたところで、美穂が魂の限りに叫んだ。
「帰ってよ! これ以上、孝之の顔を見たくない‼ お願いだから、孝之との事を全部嫌な思い出なんかにさせないで……‼」
美穂はシーツに顔を伏せてむせび泣き始めた。
美穂の顔を見る事もできなくなった僕は、罪悪感だけを残して静かに個室から出る。それでも、彼女の泣き声はずっと耳について離れなかった。
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