第81話

「迷惑なんだ」

「えっ……」

「誰にも知られたくないんだよ。特に、由佳子さんにはな」

「由佳子さん……?」

「ああ。だから、手術を受けてくれ」


 僕は美穂の手を乱暴に振り払う。彼女の顔が、だんだんと青ざめていくのが分かった。


「何で? 何で今更、そんな事言うの……?」


 美穂が震える声で言った。


「だって、由佳子さんの事はもう忘れるって。だから、私と一緒にいてくれたんじゃないの……?」

「……そのつもりだったけど、やっぱり無理だった」

「何よ、それ……」


 美穂は、僕に振り払われた手を痛そうに押さえた。


「私は、私なのに……。由佳子さんじゃないのに……」

「……」

「私の事、そんなふうに見てたなんて……」

「……家まで送るよ。お母さんが待ってる」

「やめて、冗談じゃないわ!」


 美穂は立ち上がると、自分の下腹部を守るように両腕を当てた


「家に帰ったら、この子殺されちゃう‼ まだ小さいけど、ちゃんとここで生きてるのよ⁉」

「いい加減にしろ、美穂。無理なものは無理だ」

「言わないで! 孝之が誰を想っていようと、私の子である事に変わりないもの。生むからね、世界中の人間に反対されても私はこの子を生むから‼」


 そう叫ぶと、美穂は僕の部屋を出ていった。


 美穂は本気だ。これから先、どんなに苦労しても自分と僕との間にできた子供を生み、育てていくだろう。それだけは何としても避けたかった。両親に、兄貴に、そして由佳子さんには絶対に知られたくない。そう思った僕は、美穂の後を追って走った。


 美穂は僕の家を飛び出し、大通りの方に向かっていた。その両腕は、ずっと下腹部を支えている。僕はすぐに美穂に追い付き、その肩を捕まえた。


「あきらめろ、美穂。また新しく作ればいいだろ」

「この子を物みたいに言わないで! この世にたった一つしかない命なのよ⁉」


 美穂は何とか僕から離れて、すぐ目の前の横断歩道を渡ろうとする。そうはさせまいと素早くその手を掴んだ僕を、美穂は憎々しげににらんでくる。それと同時に、たくさんの涙を流していた。


「どうしてよ……」


 低い声で、美穂が言った。


「どうして、この子を殺そうとするの⁉ 私と孝之の間にできた、たった一つの絆なのに。私だって、ずっと見てきたのに……」

「え……」

「孝之が由佳子さんを忘れられなかったように、私だって、孝之の事っ……!」


 視界の端に映る歩行者用の信号機が、ちかちかと点滅しだす。それと同時に、美穂の手を掴んでいた僕の手の力が緩み始めた。


 僕は、美穂と出会った中学時代から今までの事を思い出していた。


 美穂がいつから自分に好意を持っていてくれたのか、それは全く分からない。僕だって、いつから由佳子さんを想い始めていたかなど、もうはっきりとした事は分からない。


 ただ分かるのは、きっと美穂も僕と同じように苦しかったのではないかという事だ。どんなに気持ちが大きくなっても、相手は自分ではなく別の人を見続けたまま、決して振り向いてくれる事はない。だが美穂の場合、やっと僕は振り向いた。そして穏やかで幸せな時間を得る事ができたのに、当の僕からこんな裏切りの言葉を浴びせられたのだ。僕の頭の中で、何かがガンガンと音を立てて響き始めた。


(俺はさっき、美穂に何て言った? さっきからこいつに、どれだけひどい言葉を言い続けている? 俺はいったい、美穂に何を……?)


 僕の手に力がなくなった事に気付いた美穂の手がするりと抜け、そのまま横断歩道へと向かっていく。一瞬遅れて僕も後を追おうとしたが、目に映った信号の色に驚愕した。


「……美穂、行くな! 戻れぇ‼」

「え……」


 美穂の足が止まった瞬間、彼女のすぐ横からスピードに乗った車がやってくる。その直後に聞こえてきたのは急激なブレーキ音と、何かが車のボンネットにぶつかる、鈍くて嫌な音だった――。

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