第80話
家に戻ったが、まだ両親は帰ってきていなかった。その事に少し安心し、自分の部屋に向かう。ドアを開けると、美穂が目を覚ましていた。ベッドの上で上半身だけを起こして、じっと僕を見ている。
「孝之……」
「起きたのか」
「うん、ごめんね。迷惑かけちゃって」
表情が沈んだままの美穂を気遣う事もなく、僕はベッドの端に腰を落として背中を向ける。その向こうから、美穂の小さな声が話しかけてきた。
「……もしかして、お母さんと会ってた?」
「ああ」
「じゃあ、全部知ってるよね」
「ああ」
「私ね、今すごく怖いの……」
美穂がどんな思いでそう言ったのか、この時の僕にはそれすら思いやる事ができなかった。情けないくらい、自分の事しか考えていなかったのだ。
ちらりと肩越しに見てみれば、美穂は自分の下腹部をとても愛しそうに撫でていた。
「でも、それと同じくらいすごく嬉しい。ここにもう一つ命があるんだって、とてもよく分かるの……」
「……」
「お父さんもお母さんも、まだ早すぎるって。今回はあきらめて、私に手術を受けろって言うの。それで病院から逃げてきちゃった……」
「ああ、聞いたよ」
「孝之、私の最初で最後のわがままを聞いてほしい」
美穂が顔を上げる。覚悟を決めた表情だった。
「この子を、生ませて下さい」
美穂が震える唇を一生懸命動かして言ったのに、僕は何も答えてやらなかった。ただ、じっとその顔を見据えているだけだ。何分そうしていただろうか、やがて不安に駆られた美穂が「孝之……?」と僕を呼んだ。
「返事、聞かせてよ」
「……」
「お願い」
懇願するように言ってくるので、僕は答えを聞きたいという美穂の願い「だけ」を叶えてやる事にした。
「……ダメだ」
「え?」
「俺もお前の親と同じ意見だ。今回はあきらめろよ」
自分でも驚くほど、冷たい声が出る。それほど、美穂の中にいるもう一つの命がたまらなく邪魔だった。
「俺達、まだ十九だぞ。親になるなんてまっぴらごめんだよ、冗談じゃない」
「何を言ってるの? 孝之……」
「まだまだ遊びたいのに、子供の面倒見るなんて無理だ。絶対、途中で嫌になる」
「そんなふうにはならないわ!」
美穂はベッドから飛び出して僕の前に回り込むと、床に両膝を付きながら僕の腕を強く掴んできた。
「自分の子供なのよ、大事にするわ。孝之が自由でいたいなら、責任取ってくれなんて言わない。大学辞めて、私一人で育てるから!」
「ダメだ」
「私の事を心配してくれてるの? だったら、大丈夫だから」
「そんなんじゃない」
僕はじろりと美穂を見下ろす。目の前でわめく彼女も、うっとうしくなってきた。
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