第77話

走るに走り続けて、僕は美穂の家に着いた。玄関まで出迎えてくれたエプロン姿の美穂は、ぜいぜいと大きく息を切らしながら大量の汗をかく僕の姿に驚き、洗面所から清潔なタオルを一枚持ってきてくれた。


「ど、どうしたの、孝之……」

「……最悪だよ」

「えっ?」

「ついさっき、由佳子さんに会ったんだ。見透かされてたんだよ、俺の事」

「……何か、言われた?」

「何も言われてないけど、由佳子さんならいずれ気付く。それから兄貴にも。何でだよ、何で今頃になって、こんな……!」


 僕は頭を抱えた。せっかく忘れかけていたのに、今は美穂が僕の側にいてくれるのに……。


 封印し、徐々に風化されていくはずだった想いを、最も触れてほしくなかった人に何の躊躇もなく掘り起こされてしまった。やっと嫉妬などせずに兄貴や由佳子さんの前にいられるようになったのに、もうどんな顔をして二人に会えばいいのか分からない。


「孝之……」


 美穂が心配そうに、僕の肩に手を置く。反射的に頭を上げた僕は借りたタオルを返そうとしたが、美穂の顔がひどく真っ青な事に気付いた。


「……美穂? お前どうしたんだよ、顔色がすごく悪いぞ」

「え……、別に平気よ?」


 美穂がにっこりと笑って言った。しかしその笑顔はずいぶんと薄っぺらく見えた。


「クッキー作るのに手間がかかるから、ちょっと早起きしただけよ。全然大丈夫だから」


 そう言う美穂の体がわずかに左右に揺れている。彼女の足元を見れば、やっと立っている事ができると言わんばかりにふらついていた。


「……お茶の支度するから、どうぞあがって?」


 薄っぺらいままの笑顔を見せながら、美穂は僕を家の中に招き入れようとする。しかし次の瞬間、その体はぐらりと大きくバランスを崩し、小さく微かな呻き声と共にその場に倒れた。


「美穂っ⁉」


 靴を脱ぐのも忘れて駆け込むと、僕は美穂の体を抱き起こす。顔色はさらに真っ青になり、呼吸も浅く短かった。


 僕の叫ぶ声を聞き付けて、台所から美穂の母親が慌てて出てくる。娘が倒れているのを見て、聞き分けられないほどの大きな悲鳴をあげた。


「救急車を呼んで下さい、早く‼」


 僕が叫ぶと母親はパニックで動きが鈍くなった両手で何とかスマホを操作し、救急車を呼んだ。


 通報から十分ほどして、救急車がやってきた。意識を失ったままの美穂は母親に付き添われて救急車に乗せられていき、彼女の家には僕一人だけが取り残された。


 父親には後で連絡を入れる。孝之君は何も心配せずに、娘の作ったクッキーを食べてあげてちょうだいと、母親から家の合鍵を渡された。僕は失礼ながらも家の中に入り、食卓へと向かった。


 テーブルの上には、きれいに皿へ盛られたクッキーの山があった。様々な形のものがあり、ずいぶんと手が込んだ仕上がりようだ。僕はそのうちの一枚を手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。さくっとした歯応えの良い食感が口の中いっぱいに広がった。





『私のクッキーって、由佳子さんみたいに仕上がらないのよ。何度やっても、どこか微妙に違うのよね』





 僕は、いつかの美穂の言葉を思い出す。きっと、あれから何度も繰り返し練習してきたのだろう。美穂のクッキーは、由佳子さんのものと引けを取らないくらいうまくなっていた。

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