第76話
あの日から、三ヵ月ほどが過ぎた。
無事に婚約となった兄貴と由佳子さんは、来年の結婚式に向けて徐々に準備を始めていた。それと同時に由佳子さんは兄貴のマンションで一緒に暮らしだし、毎日がとても幸せそうだった。
一方、僕は美穂と自然に付き合うようになっていた。美穂は必要以上のわがままを言う事もなく、一緒に大学に行ったり、喫茶店でお茶をするくらいの事でずいぶんと喜んでくれる。その度に僕の心は少しずつ軽くなり、だんだん由佳子さんの事を考えなくなっていった。
ある休日の事、美穂からLINEが届いた。久しぶりにクッキーを焼いてみたから一緒に食べないかというので、断る理由などなかった僕は二つ返事でOKと返事をした。
昼過ぎに家に来てほしいと返信が来たので、僕は腕時計が十二時を差したと同時に家を出た。美穂の家まで徒歩だと大体三十分ほどかかるから、ちょうどいい頃合だろう。僕はのんびりと住宅街の道を歩いていた。
十分ほど歩いた時だった。偶然にも、前から買い物袋を提げた由佳子さんが汗だくでこちらにやってくるのが見えた。
「由佳子さん?」
思わず声をかけると、僕に気が付いた由佳子さんは「孝之君」と笑いながら、ゆっくりと近付いてきた。
「買い物に行ってたの?」
「ええ、今夜の食事の分をね。孝之君はどこに行くの?」
「美穂の家。クッキーを焼いたから来てくれだって」
「コウちゃんから聞いたわ、美穂ちゃんと付き合ってるんですってね。良かった……」
「良かった?」
僕は不思議に思った。由佳子さんが何故「良かった」などという言葉を使うのか分からなくて、僕は少しだけ気分が悪くなった。
「……何が良かったんですか?」
むっとした顔で僕は尋ねるが、由佳子さんは逆に安心したように頬を緩ませた。
「だってこれまでの孝之君、とても痛々しかったから。心配だったのよ」
「え……」
「いつも、何か思い詰めてるような。それでずっと苦しんでいたような……。でも話してくれそうにないから、私は何もできなかった。コウちゃんも気付いてたのよ、孝之君の様子がおかしかったのを」
心のどこかに、ヒビが入ったような気がした。
兄貴も由佳子さんも、僕の動揺を見透かしていた。ただ、二人はあまりにも大人だったから、あまりにも子供じみていた僕に問い詰めるような真似をしないでいてくれただけだ……!
僕はかつての由佳子さんへの想いまで二人に知られてしまったように感じて、この場にいるのが恥ずかしくなった。気が付けばその場に由佳子さんを残して、全速力で走りだしていた。
「あっ、孝之君⁉」
背中のずっと向こうで由佳子さんの戸惑う声が聞こえたが、振り返る事など到底できなかった。
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