第62話






 教員免許を無事に取得し、大学を卒業した兄貴は隣の市の公立高校に数学教師として採用が決まり、実家を出る事になった。


 まあ、出たと言っても、家から兄貴が借りたマンションまで片道十五分ほどしか離れていないし、行こうと思えばいつでも行ける距離だ。マンションを借りたのは、単にそっちの方が隣の市までの交通の便が良いというだけの理由だった。


 兄貴は赴任先の高校で、さっそくバスケ部の副顧問兼コーチとなった。何でも顧問の体育教師が学生時代の兄貴の活躍を知っていたようで、是非にと迎え入れてくれたのだという。兄貴は数学教師とバスケ部のコーチという二つの立場を任され、懸命に努力する日々を送っていた。


 加えて由佳子さんも教員免許を取り、高校の英語教師となった。彼女の採用先は、何と僕の高校だった。


 高校三年の一学期の始業式。由佳子さんが新任教諭として壇上で紹介された時は、体育館中の誰もが深い溜め息をついた。それほどまでに由佳子さんは上品で美しく、全てにおいて華があった。由佳子さんが学校中の生徒達の憧れの的となるには充分すぎる理由だった。


 一方、僕はといえば、進路を就職の方向で進めてはいたものの、どんな職業に就きたいのか、それ以前にどんな事に興味があるのかという事さえ分からず、高校三年の本来忙しい時期にも関わらず、かなりのんきに過ごしていた。いや、むしろ頭の中は就職より由佳子さんの事でいっぱいだった。


 由佳子さんへの想いに気付いてからというもの、僕の視線はずっと彼女を追いかけていた。校舎の廊下で誰かと話している様子を偶然見かける事ができれば、その日一日いい事尽くめで過ごせそうな気分になれたし、用事があって昼休みに職員室に出向いた時など、真剣な表情で午後の授業に使う資料をまとめていた。


 それがものすごくかっこよくて、ますます想いが強くなる。職員室を出る際、わざとそんな彼女のデスクまで回り込んで「由佳子さん、頑張ってね」と小さく声をかけたら。


「こら。学校じゃ西崎先生でしょ、緒形君」


 僕と同じように小さな声でそうたしなめてくれた由佳子さん。何だか二人だけの秘密ができたような気がして、僕はすっかり有頂天になっていた。

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