第63話

ある休日の事だった。夕方頃、僕のスマホに兄貴からのLINEが入り、おごるから夕食を一緒に食べないかと誘われた。特に断る理由もなかった僕は「別にいいけど」と返信した上で、自転車を飛ばした。


 午後七時を少し過ぎた頃に兄貴のマンションに着き、部屋のドアをノックする。兄貴は躊躇なくドアを全開にして、にかっと笑いながら迎えてくれた。


「孝之、何が食いたい? 給料出たばかりだから、ちょっとだけぜいたくできるぞ」


 マンションを出て、近くのアーケードを二人肩を並べて歩く。僕は少し悩んでから「定食系がいい」と答えた。


「そんなんでいいのか?」


 兄貴が驚いて言った。


「遠慮するなよ、金なら余裕あるぞ。焼肉でも構わないのに」

「いいよ。残った金は、由佳子さんとのデート代に使ったらどうだ?」


 僕は皮肉を込めて、そう言った。


「デートどころか、電話だけで精いっぱいだ」


 僕の皮肉に全く気が付かない兄貴は、普通にさらっと答えた。しかし、そこに不安や不満は一切含まれていない。


「でも、由佳子は由佳子で頑張ってるんだ。俺も俺で頑張っている。そうだろ?」

「え、まあ……」

「だから、今はそれでいいんだよ」


 そう言って、兄貴は僕の前に立って歩いた。


 僕はわずかないらだちを覚えた。僕に付け入る隙を与えようとしない二人の絆の強さが、たまらなくうっとうしかった。


 僕達はやがて一軒の小さな定食屋に入った。席に着いて、それぞれ好みの定食を注文する。覇気のない顔付きをしたオバさんが水を持ってきて、「少々お待ち下さい」とだけ言って奥へと引っ込むと、すぐに兄貴が「孝之」と口火を切ってきた。


「母さんから電話で少し聞いたんだけど、お前、卒業後の進路をまだはっきり決めてないそうだな?」

「ちょっ……誤解だよ、ちゃんと就職の方向に進めてる」

「じゃあ、何になるんだ?」

「それは、まだ分からない」

「そういうのを、はっきり決めてないって言うんだ」


 兄貴が僕の顔をじっと見据えながら言う。少し気まずくなって、僕はちょっとだけ兄貴から目を逸らした。


「フリーターよりは全然マシだろ? いくつか採用試験を受けようと思ってるし」

「適当に数多く受ければ当たるもんじゃないぞ、下手な鉄砲じゃあるまいし」

「……何でもいいよ、稼げるなら。俺は兄貴や由佳子さんみたいに、頭は良くないから」

「お前、本当にそれでいいのか?」

「大丈夫だって、しつこいな」

「でもな、孝之」

「俺の事より、由佳子さんとの事はどうなんだよ? 昔よりずっときれいになってんだ、下手すれば誰かに取られるぜ」

「そんな心配はしていない」

「何でだよ」


 僕が尋ねると、兄貴は少しだけ胸を張ってから答えた。


「由佳子はそんな女じゃないと、俺が信じているからだ」


 兄貴の言葉が、僕の胸にこれでもかと突き刺さる。確かに、由佳子さんはそんな女じゃない。誰よりも深く優しい愛情で兄貴を包みこむ、心の美しい人だ。


 由佳子さんが、その辺にいくらでもいる普通の女の人達と同じだったら良かったのに――。僕は心からそう思いながら、愛想のないおばさんが運んできてくれた定食に箸をつけた。

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