第61話
中庭と言っても噴水が一つにベンチがいくつかあるだけのもので、日当たりこそいいものの、今は誰もいなくて閑散としている。だが、それがかえって好都合だった僕は、ベンチの一つに腰かけてそのまま頭を抱えた。
僕は、今の兄貴をほんの少しだけずるいと思った。自分の弟がどうしようもない奴であった事も、ましてや由佳子さんがいなくなってしまった事にも気付かず、ずっと眠り続けている。何も知らないまま、眠っているんだ……。
そう思ったら、僕の目から涙がこぼれた。
あの事故の日から、いったい僕はどれほど涙を流してきたのだろう。
どれほど兄貴の前で泣くまいと努力してきただろう。
何度あの夢の中で、兄貴を泣かせてきたのだろう……。
自業自得とはいえ、この現実は僕の背中にはあまりにも痛くてつらくて、どうしようもなく重かった。
どれだけそうしていただろうか。突然、聞き覚えのある声で風に乗って僕の耳に届いてきた。
「……泣いているの?」
はっとして、涙をぬぐいながら顔を上げる。するとすぐ目の前に佐伯先生が立っていた。
「佐伯先生……」
「お兄さんの代わりに泣いてあげてるの?」
休憩中なのだろうか、佐伯先生は白衣を着ていなかった。その手にはコーヒーが入った紙コップが握られていて、コーヒーの風味豊かな香りが宙をふわりと漂っていた。
「佐伯先生、どうしてここに……」
「ここは私の特等席なのよ、一人になりたい時のね。でも孝之君に知られちゃったから、もう特等席じゃなくなっちゃった」
薄く笑いながら、佐伯先生は僕の隣に座る。僕は泣いている姿を見られていたのがたまらなく嫌ですぐにそっぽを向いたが、佐伯先生は間髪入れずにもう一度言ってきた。
「孝之君、誰の代わりに泣いていたの?」
「……誰の代わりでもないです」
僕は首を横に振った。
「自分の情けなさに泣けてくるんですよ。俺はつくづく嫌な人間だ」
「どうして?」
「知ってるでしょう、俺のせいで何人傷付いてきたか」
「……」
「俺がずっと我慢して忘れていれば、誰も傷付かずにすんだんだ。兄貴も由佳子さんも、そして美穂だって幸せになれたんだ」
「誰かを傷付けるのは、怖い?」
「怖いなんてもんじゃないですよ!」
僕は立ち上がると、叫ぶようにして言った。
「俺が我慢しなかったばっかりに、美穂をひどく傷付けた。今なら、今ならあいつに子供を産ませてやりたいと思うのに……。どうして俺は、あの時……!」
あの日、本気で僕に怒り、罵倒してきた兄貴の顔を思い出す。あの日の兄貴は誰よりも正しかったのに、僕のせいで人生が大きく狂ってしまった。
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