第四章
第60話
次の日も僕は兄貴が眠り続けている療養施設へと向かったが、その道中で頭の中を何度もよぎったのは、昨夜の美穂の言葉だった。
『あの二人さえいなきゃ良かったのよ。由佳子さんと康介さんさえ最初からいなきゃ、こんな事にはならなかった‼』
『一番そう願っていたのはあんたじゃない。康介さんさえいなくなればって、いつも思ってたのは孝之の方じゃない‼』
今頃になって、不安が僕の心を占める。本当にそんな訳ないだろうと、僕は思っていただろうか。
物心ついた頃から、兄貴は僕の自慢だった。ダンクシュートを決める中学生の兄貴が、最後の最後まであきらめずにバスケに向き合おうとした高校生の兄貴が、自分の目標に向かって不器用なまでに実直だった大学生の兄貴の弟である事が、何よりも誇らしかった。それなのに、どうして今はそうじゃないんだ。機械や点滴に繋がれ、こんこんと眠り続けている今の兄貴を、どうして僕は……。
あの頃、ほんの一瞬でも、兄貴を疎ましいと思ってしまったからだろうか。美穂の言う通り、兄貴さえいなければと。そんな恐ろしい事を考えてしまったばかりに、今があるんじゃないのか。だったら、やっぱり最初からいなければよかったのは兄貴でも由佳子さんでもなく、僕自身だった。あんな身勝手で、冷たい言葉を平気で言ってしまう僕さえいなければ、美穂だって今頃は……!
そう思ってしまったら、療養施設の入り口の前で僕の足がぴたりと止まった。急に眠り続ける兄貴の顔を見るのが怖くなってしまったのだ。
情けないくらいに足がすくんで、頬に冷や汗が幾筋も流れる。これからは兄貴の為に生きるだなんて偉そうな事を言っておいて、しょせんこの程度なのか。その程度の覚悟で、今の兄貴と向かい合っていたのかと自分を責めていたら、入り口ドアの向こうから一組の夫婦がこっちにやってくるのが見えた。
きっと身内の見舞いに訪れたのだろう。しかも奥さんの方はおなかがかなり大きくなっていて、ゆっくり歩きながら旦那さんと一緒に幸せそうに微笑んでいた。
「良かったわね、お義父さん持ち直してくれて」
奥さんが安心したように言っているのが聞こえてきた。
「これで安心してこの子を産めるわ。孫の顔を見せてあげられて、本当に良かった」
「ああ。元気な子を産んでくれよ?」
旦那さんの方も嬉しそうにそう言って、奥さんの大きなおなかにそっと手を当てている。僕はそんな微笑ましい光景を見る事ができなくて、足早に施設の中庭の方へと逃げた。
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